大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所豊岡支部 昭和50年(ワ)18号 判決

当事者の表示 別紙当事者目録記載のとおり

主文

一  被告らは、原告番号1ないし26、28、29の1ないし3、30ないし58の各原告に対し、各自、別表第一(認容金額一覧表)記載(「認容金額」の欄)の各金員及び同表記載(「慰謝料」の欄)の各金員に対する昭和四九年一一月二三日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告番号1ないし11、13ないし26、28、29の1ないし3、30ないし32、34ないし58の各原告のその余の請求及び原告番号27の1、2、59の1ないし3、60、61の各原告の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告番号1ないし11、13ないし26、28、29の1ないし3、30ないし32、34ないし58の各原告に生じた費用の二分の一、原告番号12、33の各原告に生じた費用及び被告らに生じた費用の二分の一は被告らの負担とし、原告番号1ないし11、13ないし26、28、29の1ないし3、30ないし32、34ないし58の各原告及び被告らに生じたその余の費用と原告番号27の1、2、59の1ないし3、60、61の各原告に生じた費用は右原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、原告らに対し、各自、別表第二(請求金額一覧表)記載(「請求金額」の欄)の各金員及び同表記載(「慰謝料」の欄)の各金員に対する昭和四九年一一月二三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告ら五八名及び承継前原告ら三名(以下、六一名を総称して単に「原告ら」という。)は、昭和四九年一一月二二日当時、いずれも兵庫県立八鹿高等学校(以下「八鹿高校」という。)の教職員であった。

(二) 右当時、被告丸尾は、部落解放同盟(以下「解放同盟」という。)兵庫県連合会沢支部長のかたわら八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議議長をつとめ、被告山本は、解放同盟兵庫県連合会南但馬支部連絡協議会(以下「南但支連協」という。)会長の地位にあった。

2  被告らの本件不法行為

(一) 本件不法行為に至る経緯

(1) 被告らは解放同盟兵庫県連合会に所属する南但馬の各支部を指導して、南但馬に所在する各学校にいわゆる被差別部落の生徒を中心に組織した部落解放研究会(以下「解放研」という。)を作らせ、これを通じて、解放教育の名のもとに学校教育に介入し、解放同盟の勢力の浸透を図っていた。

(2) そして、南但馬の殆んどの学校に解放研が作られ、その教育が解放同盟の支配下に置かれるようになっていくなかで、ひとり八鹿高校の教職員のみが、解放研を作ることに反対し、解放同盟が学校教育に介入してくることを拒否し続けていた。

(3) しかし、被告らは、兵庫県教育委員会(以下「県教委」という。)等の協力のもと、八鹿高校職員会議の反対を無視し、昭和四九年七月三〇日、校長、教頭をして、同校に解放研を発足させた。

(4) その後、八鹿高校の解放研の生徒が、被告らの指導により、原告らに対し、不当な要求を掲げて話合いを申し入れてきたため、原告らがこれを拒否したところ、被告らは、これをもって八鹿高校では差別教育が行われていると喧伝し、これを口実に原告らを糾弾しようと企て、南但支連協傘下の多数の部落解放同盟員ら(以下「解放同盟員ら」という。)を結集して、昭和四九年一一月一八日「八鹿高校教育正常化闘争共闘会議」(以下「正常化共闘会議」という。)を結成し、被告丸尾がその議長となり、同月二〇日には、これを「八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議」(以下「糾弾共闘会議」という。)と改称したうえ、同日から連日にわたり、糾弾共闘会議の行動として多数の解放同盟員らを八鹿高校の校内につめかけさせ、糾弾共闘会議の名において原告らに対し、「解放研を認めよ。」「解放研の生徒と話し合い、その要求を認めよ。」「八鹿高校における原告らの教育が差別教育であることを認めよ。」などと要求した。

(5) 昭和四九年一一月二二日朝登校した原告らは、校内や路上に多数の解放同盟員らが動員されており、校内には「解放車」と称する解放同盟の宣伝車が多数入りこんで不穏な状態になっていたことから、被告らの原告らに対する糾弾計画を察知し、生命身体に対する危険を避けるため、直ちに集団下校の措置をとったところ、被告らは、原告らの下校を阻止しようと企て、多数の解放同盟員らを指揮し、徒歩で下校中の原告らを、八鹿高校から約三〇〇メートル離れた兵庫県養父郡八鹿町八鹿一〇五七番地立脇履物店前付近路上で取り囲み、原告らの下校を阻止したうえ、更に、右多数の解放同盟員らを指揮して、原告らに対し、本件不法行為を加えるに至った。

(二) 本件不法行為の概要及び原告らの被害状況

被告らは、糾弾共闘会議に参加した解放同盟員ら多数と共謀し、昭和四九年一一月二二日午前九時五〇分ころから同日午前一〇時ころまでの間、前記立脇履物店前及びその付近路上において、原告番号1ないし26、28、30ないし58の各原告並びに承継前原告である(27)亡甲野太郎及び(29)亡乙山春夫の合計五八名に対し、その頭部、顔面を殴打し、あるいはその腕、足、背部を蹴るなど、別表第三(不法行為態様一覧表)記載(「立脇履物店前およびその付近路上」の欄)の暴行を加え、スクラムを組みその場に座り込んだ右原告らを数人がかりで一人ずつスクラムから引き離し、右原告らのうち、原告番号53ないし58を除くその余の原告及び承継前原告ら合計五二名の身体を拘束したうえ、同人らを同所から同町九鹿八五番地所在の八鹿高校校内に連行したうえ、引き続き同日午前一〇時ころから同日午後一〇時四五分ころまでの間、別表第四(監禁強要一覧表)記載(「監禁時間」の欄)のとおり、一人につき約一時間ないし一二時間四五分にわたり、同人らを同表記載(「主な監禁場所」の欄)のとおり、第二体育館、本館二階会議室(以下「会議室」という。)、解放研部室、休養室又は第一体育館などに閉じ込め、右解放同盟員ら多数で包囲、看視して同人らが学校から脱出するのを不能にさせ、その間、別表第三(不法行為態様一覧表)記載(「立脇履物店前及びその付近路上」を除くその余の場所の欄)のとおり、第二体育館、会議室又は解放研部室において、右原告ら五二名に対し、髪の毛を引っ張り、頭部、顔面を殴打し、腹部、背部等を蹴り上げ、冷水を頭から浴びせ、又は煙草の火を顔面に押しつけるなどの暴行を加え、あるいは「誰も助けにこない、自己批判書を書け。」「お前らは差別者だ、殺してやる。」などと言って脅迫し、その結果、別表第四(監禁強要一覧表)記載(「自己批判書等の作成状況」の欄)の原告ら合計三六名をして、その意思に反し、「過去の同和教育は誤りであった。」「今後は解放同盟と共に同和教育を進めていく。」などと記載した自己批判書又は確認書を作成させたが、前記一連の暴行により、原告番号1ないし3、5ないし8、10ないし12、15ないし25、30ないし54及び57の各原告並びに承継前原告(29)亡乙山春夫の合計四八名に対し、別表第五(傷害一覧表)記載のとおりの傷害を負わせた。

3  被告らの責任

被告丸尾は糾弾共闘会議議長として、被告山本は南但支連協会長として、いずれも糾弾共闘会議に参加した多数の解放同盟員らの最高責任者たる地位にあったのみならず、右解放同盟員らによる前記不法行為を指揮、統括していたものであるから、被告らは、右多数の解放同盟員らと互いに意思を通じ、共同して本件不法行為を行ったものというべきである。

よって、被告らは、民法七一九条一項前段により、共同不法行為者としての責任を負い、連帯して、原告らが本件不法行為により被った後記損害を賠償すべき義務がある。

4  損害

(一) 慰謝料

本件不法行為は、長時間にわたる逮捕監禁に加え、全く無抵抗の原告らに対し、多数の解放同盟員らが、集団で、原告らの頭部、顔面等を手拳で殴打し、あるいは半長靴を履いた足でその腹部、背部等ところかまわず蹴り上げ、冷水をバケツで頭から浴びせたり、煙草の火を顔面に押しつける等した極めて残酷かつ悪質な集団暴行であって、これによって原告らの多くが被った傷害の程度も決して軽いものではない。また、被告らは、八鹿高校の教育を差別教育と中傷し、八鹿高校教職員である原告らを差別者と罵倒しながら、教育の現場である学校内において本件集団暴力を執拗に続け、あまつさえ原告らの多数に対し、「八鹿高校の教育は間違っていた。」等の自己批判書の作成を強要したものであって、原告らは、これによって教職員としての名誉や人格を著しく毀損され、侵害された。しかも、被告らは、本件不法行為の首謀者であり、本件不法行為を全体として終始指導していたものであり、原告らの損害も、被告らの過失ではなく、その加害意思によって惹起されたものである。

以上のような諸事情を考慮すれば、原告らが本件不法行為によって被った肉体的、精神的損害は、金銭に評価して、別表第六(損害金額一覧表)記載(「慰謝料」の欄)の金額を下らないものである。

(二) 弁護士費用

原告らは、本件訴訟を原告ら訴訟代理人である弁護士に委任し、その報酬として別表第六記載(「弁護士費用」の欄)の手数料及び報酬を支払う旨約した。

5  損害の填補

原告らは、昭和五七年三月三一日、分離前の相被告兵庫県との間で、本件について訴訟上の和解をし、同年四月一〇日、兵庫県から、慰謝料、弁護士費用、見舞金の名目で、別表第七の一(和解金額一覧表)、二(見舞金額一覧表)記載の各金員を受領し、その損害額に補填した。

6  承継前原告らの損害賠償請求権の相続

原告(27)亡甲野太郎は昭和五四年一一月二七日、原告(29)亡乙山春夫は昭和五三年七月一八日、原告(59)亡丙川夏夫は平成元年八月一四日、それぞれ死亡し、(27の1)甲野二郎及び(27の2)甲野花子は亡甲野太郎の父母として、(29の1)乙山春子は亡乙山春夫の妻、(29の2)乙山一郎及び(29の3)乙山夏子は同原告の子として、また、(59の1)丙川秋子は亡丙川夏夫の妻、(59の2)乙野冬子及び(59の3)甲原竹子は同原告の子として、それぞれ法定相続分に従い、亡甲野太郎、亡乙山春夫、亡丙川夏夫の法的地位を承継した。

7  結論

よって、原告らは、被告ら各自に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、別表第二記載の賠償金及びその内金である同表記載(「慰謝料」の欄)の慰謝料に対する不法行為の日の翌日である昭和四九年一一月二三日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否及び被告らの主張

1  認否

(一) 請求原因1の(一)は知らない。(二)は認める。

(二) 請求原因2の(一)(1)、(2)は否認する。

(三) 同(3)のうち、解放研が昭和四九年七月三〇日発足したことは認めるが、その余は不知ないし否認する。

(四) 同(4)のうち、原告らが、解放研の話合いの申入れを拒否したこと、正常化共闘会議が昭和四九年一一月一八日結成され、被告丸尾がその議長となったこと、右組織が同月二〇日糾弾共闘会議と改称され、被告らが同共闘会議の名において原告らに対し、「解放研を認めよ。」「解放研の生徒と話し合い、その要求を認めよ。」「八鹿高校における原告らの教育が差別教育であることを認めよ。」などと要求したことは認めるが、その余は不知ないし否認する。

(五) 同(5)のうち、原告らが昭和四九年一一月二二日朝登校後、直ちに集団下校したことは認めるが、その余は不知ないし否認する。

(六) 請求原因2の(二)のうち、被告丸尾が解放同盟員らと共に原告らを立脇履物店前から校内に連れ戻したこと、被告らが校内で糾弾共闘会議構成員と共に原告らを糾弾し、自己批判書の作成を求めたことは認めるが、被告らが糾弾共闘会議に参加した解放同盟員多数と共謀して、原告らに暴行脅迫を加えたことは否認し、その余は不知ないし否認する。

(七) 請求原因3は争う。

(八) 同4の(一)(二)はいずれも知らない。

(九) 同5は認める。

(十) 同6は全て知らない。

2  主張

(一) 被告丸尾は、隊列を組み集団で下校する原告らを追って、原告らと共に立脇履物店前まで移動したが、同所で原告らが突然スクラムを組み座り込んだので、原告らに対し、解放研生徒と話し合ってくれるよう説得した。しかし、原告らがこの説得を聞き入れようとせず、黙って下を向き座り込んだままだったので、被告丸尾は、交通の妨害を避けるため、そこに参集してきた解放同盟員らに原告らに学校に帰ってもらうよう指示した。この時解放同盟員らは、原告らに対し、「何故学校から帰るのか。」などと激しく詰め寄ったことはあったが、暴力をふるったことはない。

その後、被告丸尾は、学校に戻ったが、体調が悪かったので、県教委関係者の要請で八木川の河原へ同所に集結した八鹿高校の生徒達を説得するため出掛けた外は、殆んど校長室で横になり休んでいた。その間、解放同盟員らが被告丸尾に糾弾の状況を報告に来たことはなく、被告丸尾が一度だけ本館二階を覗いた時は、解放同盟員らと原告らの話合いは整然と行なわれていた。

(二) 被告山本は、原告らに先回りして国鉄八鹿駅に行き、その後、学校に戻ってすぐ第二体育館に入ったが、そこでは解放同盟員らに対し、糾弾に際し暴力はふるわず整然と話し合うよう指示した。その後は、朝から体調が悪かったので、殆んど校長室の隣の部屋で横になり休んでいた。途中で数回、本館二階へ糾弾の様子を見に行ったことはあるが、話合い自体は整然と行われていた。

なお、被告山本は、原告らを学校に連れ戻した際、立脇履物店前付近にはいなかった。

(三) 仮に立脇履物店前付近路上又は学校内において解放同盟員らによる暴行脅迫の事実があったとしても、右行為は、原告らの突然の下校と頑な態度に誘発され、被害者の傍にいた者が突発的に行ったもので、被告ら及び他の解放同盟員らと共謀して行ったものではない。

三  仮定抗弁

1  正当行為

仮に被告らに原告ら主張の行為が認められたとしても、被告らの行為は、原告らの差別行為に対する糾弾として行われたものであるから、正当行為としてその違法性が阻却されるべきである。

(一) 糾弾権について

今日なお部落差別の実態には極めて深刻かつ重大なものがあるにもかかわらず、差別事象に対する法的規制若しくは救済の制度は現行法上必ずしも十分でない。このことは、既に同和対策審議会の答申や各地の部落差別事件の判決においても指摘されており、部落差別に対する国の責任と法的救済の必要性はかねてからしばしば指摘されているところである。

ところで、憲法は、国民に保障する基本的人権が犯すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられること(一一条)、基本的人権は国民の不断の努力によって保持されなければならないこと(一二条)、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は立法その他の国政の上で最大の尊重が必要とされること(一三条)、などと定め、基本的人権として、個人としての尊重、幸福追求の権利(一三条)、法の下での平等(一四条)、居住、移転、職業選択の自由(二二条)、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(二五条)、教育を受ける権利(二六条)等を保障している。糾弾は、このように憲法上保障された国民の権利を現実に享受するため、差別を受けた者が行う、一人の国民としての不断の努力の一環をなすものである。その意味においては、差別をした者も、一人の国民として、糾弾の場において誠実に対応し、一切の部落差別の解消に向けて努力することが求められているというべきである。

従って、部落差別に対する法的救済制度が未だ十分でない今日、差別に対する集団的な抗議、説得、呼びかけ等の糾弾行為は差別根絶のための必要かつ有効な手段として、その正当性が認められるべきである。

(二) 原告らの差別行為

(1) 被告らの本件糾弾は、原告らが、八鹿高校の同和教育について話し合いたいとの解放研生徒の切なる要求を拒否し、ハンガーストライキをしてまで話合いを求めた生徒達を見殺しにして集団下校したことに端を発しているが、原告らの右行動は被差別部落民に対する差別行為である。それは、南但馬における部落差別の現状と八鹿高校における同和教育の実態及び解放研生徒らが原告らに同和教育について話合いを求めハンガーストライキをするに至った経緯等を見れば明らかである。

(2) 南但馬における部落差別の現状

兵庫県養父郡の四町、すなわち、八鹿町、養父町、大屋町及び関宮町と、朝来郡の四町、すなわち、生野町、和田山町、山東町及び朝来町の計八町からなる南但馬には被差別部落が一九部落存在し、人口は約五〇〇〇人、南但馬の総人口の六・七パーセントを占めている。

南但馬は、山村地域で山が多く、もともと農地の少ない地域であるが、被差別部落では、一戸当りの所有田畑が僅かに平均約一反に過ぎない。また、山村地域なのに、被差別部落には所有する山林が全くないか、極めて狭少な山林があるに過ぎない。

このように、被差別部落の住民は、生活維持の最低条件さえ満たさない劣悪な環境下におかれ、南但馬の基本産業である農業だけでは生活できないなど、経済的劣位に置かれているのが現状であり、この経済的貧困が、南但馬の地域全体が持つ封建性と相まって被差別部落に対する社会的文化的差別をも生み出しているのである。

(3) 八鹿高校の同和教育の実態及び解放研生徒が原告らに話合いを求めハンガーストライキをするに至った経緯

ア 八鹿高校の被差別部落生徒が真の解放教育を求め解放研結成に立ち上った契機は、甲田五郎差別文章事件に端を発する。

甲田五郎差別文章とは、豊岡病院総務部長へ出向中の県幹部職員甲田五郎が、八鹿高校の卒業生である長男に対し、同校在学中の被差別部落の女子生徒Nとの交際を諦めさせる目的で書かれた手紙であり、昭和四九年一月七日甲田五郎の長男によって明らかにされた。手紙の内容は、「あの部落に出入りしていたら、お父さん、お母さんは玉置地区の中でも人に気がねしなければならない。Nさんを諦めてほしい。同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく、部落の人同士の結婚を前提として行われているにすぎない。」といった被差別部落への差別意識に満ちたものであった。

八鹿高校の教師らは、このような酷い差別を受けたNに対し、短時間の家庭訪問を行っただけで放置し、この凄じい部落差別の現実を意識的に無視し、Nを含む被差別部落の生徒に対し何らの教育的営為を行おうとはしなかった。そのため、一身にこの重い差別に直面し対決していたNは、同年二月の卒業式の席上、自ら発言を求め、「八鹿高校には真の解放教育がない、真の解放教育を行って下さい。」という非痛な訴えを残し卒業していった。

イ Nの訴えを受けた被差別部落の生徒達は、自らが八鹿高校において受けてきた同和教育が、現実の部落差別の実態を無視し、被差別部落民としての誇りと自覚を与えるものでないとの経験に基づいて、解放研の設立と八鹿高校における同和教育の改革を目指した。

八鹿高校における同和教育は特設同和教育の時間に限定され、その内容も、被差別部落の生徒の名前に因んで、「○○さんの時間です。」という声がささやかれる授業であり、教師の部落差別に関する独自の見解の独白が中心で、被差別部落民の差別による苦しみを解放するための教育とはおよそ懸け離れたものであり、被差別部落の生徒にとっては長く、苦しい時間にすぎなかった。それにもかかわらず、教師らは、差別を拡大した内実しかもたない己れの授業を、自から民主教育と宣伝してはばからなかった。

ウ 昭和四九年五月頃、解放研の結成を目指す被差別部落の生徒は、教師らに対し、解放研の顧問になって欲しいとの要請を重ねた(八鹿高校では教師二名が顧問にならないとクラブ活動として認知されない)。しかし、教師らは、解放研が解放同盟の指導下に結成されようとしているという全く誤まった前提のもと、解放同盟の運動に対する偏見と誤解に基づく非難を繰り返すばかりで、生徒らの行う解放研設立の必要性や目的の説明を聞こうとはしなかった。

エ 同年六月二二、二三の両日、但馬文教府において、「部落解放に立ち上がる高校生の宿泊研修会」(以下「一泊研修会」という。)が計画されていたが、生徒達の参加を巡って、教師らは、被差別部落の生徒の声も聞かず、一方的に右研修会への参加を禁止した。そのため、被差別部落の生徒らは、教師に右研修会への参加の許可を求めて話合いに行ったところ、教師らは解放同盟に対する中傷を浴びせるばかりで、解放研の結成に反対し、これを非難する挙にでた。

オ そのため、被差別部落の生徒達は、部落の完全解放という、より切実な願いの実現のため、教師の許可なく一泊研修会に参加し、右研修会において、八鹿高校の教頭に対し、自らが日常経験している差別の実態を話し、八鹿高校の同和教育が苦しみ以外の何ものでもないこと、それ故に解放研を是非設立したいとの熱意を訴えたところ、教頭は生徒らに解放研設立への協力を言明した。

カ その後も、解放研の結成を求める被差別部落の生徒達は、教師に対し顧問への就任を強く要請したが、そのための話合いすら断られ続けた。八鹿高校育友会も生徒との話合いさえ拒否するという異常な事態に驚き、同年七月一六日、教師らに八鹿高校の同和教育の方針について説明を求め、解放研を求める生徒との話合いを行うことを求めたが、これも拒否された。

このような経緯を経て、解放研は、同年七月三〇日、校長が職権で公認し、教頭を顧問として発足した。

キ 同年九月以降、解放研生徒は、活発に研究、発表等の活動に取り組もうとしたが、教師らは、教師の持つ掲示物の許可権限を盾に、解放研生徒らの活動を抑圧した。例えば、九月中旬の文化祭に際し、解放研が、研究発表を行うべく準備し、ビラ等の掲示のため生活指導課に許可を求めに行ったところ、職員会議が解放研を認めていないとの理由で不許可にされてしまったのである。

ク 解放研の生徒は、その後も粘り強く、教師らに対し、八鹿高校の同和教育の方針について話合いを求めた。その結果、当時同和教育室主任であった原告丁野二夫は、同年一一月一五日に至り、漸く翌一六日午後一時から解放研の部室で話合いに応じることを約束した。しかし、当日になると、原告丁野は、一方的に約束を破り、解放研部室にすら姿を現わさなかった。そのため、解放研の生徒が午後三時ごろ職員室へ赴き、右原告丁野に説明を求めたが、丁野はただ職員会議の決定だというばかりで話合いに応じようとはしなかった。それでも解放研生徒が粘り強く話合いを求めた結果、教師らは右原告丁野外二名の教師が職員室で解放研生徒と話し合うことを認め、直ちに話合いがもたれた。話合いは整然と行われ、話合い拒否の説明を聞いたり、八鹿高校の同和教育の問題へと進んでいったが、原告丁野らは曖昧な態度に終始し、誠実に話し合おうとする姿勢を全く示さなかったばかりか、午後五時過ぎ頃には、原告丁山、同丁川ら男性教師三、四〇名が、突然時間がきたと称して集団で話合いの場に乱入し、原告丁野らを取り囲むようにして連れ出し、スクラムを組んで集団で下校してしまった。

このため、解放研生徒らは、同日夜及び翌一七日と話合いを続けた結果、教師らに対し、(1)解放研に三名の顧問をつけること、(2)解放研を正式のサークルと認めること、(3)八鹿高校の同和教育は被差別部落の生徒の幸せにつながらなかったことを認めること、以上の三項目を要求することを決め、そのために必要ならばハンガーストライキも辞さないが、とりあえず、一八日朝、経過説明のビラを全校生徒に配ったうえ、同時に職員室前で座込みを始めることを決めた。

ケ 解放研生徒らは、予定どおり、同月一八日ビラを配り、職員室前に座り込んだ。生徒らは、授業時間中は座込みの場所で各自が自習し、休憩時間にアピールを行うといった統制された行動をとり、また、ホームルームの時間に、何人かが各教室を回り、座込みに至った経緯、解放研の要求などを一般の生徒達に説明した。

当初は数人かの教師が授業に出ようやと声をかけていたが、その教師らも、座込みを余儀なくされた原因については語り合おうとしなかった。しかし、大部分の教職員は、座込み生徒を睨みつけたり、あるいは避けて遠回りして職員室へ出入りしていた。

コ 解放研生徒の父兄からも、生徒らから話を聞き、何とか話合いの機会が実現するように教師らと折衝したが、教師らは、職員会議の結論というばかりで、個人の見解は示さず、挙句には、七月の解放研ができる前の状態に戻したら、その時点で職員会議にかけて返事すると書いた紙片を示し、話合いを拒否した。

育友会役員も教師らに解放研生徒らとの話合いを求めたが、教師らは、七月以前の状態に戻すようにという主張を繰り返すばかりであった。

サ 解放研生徒らは、教師らが話合いに応じないばかりか、同生徒らを無視する態度を取り続けたので、ハンガーストライキにはいる決意を固め、父兄や糾弾共闘会議の人々にその旨を伝え、同月二一日午後四時、ハンガーストライキに入った。

シ 解放研生徒らは、翌二二日もハンガーストライキを継続し、父兄らも付き添っていた。

教師らは、同日午前九時ころ集団登校してきた。しかし、右時点で、校内には解放同盟員らの姿はなく、前日と較べ事態の変化はなかったにもかかわらず、教師らは、職員室に入るや、直ちに職員会議を開き、僅か五分足らずの会議で、有給休暇をとって一斉に下校する旨の決定を行った。そしてハンガーストライキをしている生徒を放置して、三列縦隊に隊列を組み、校歌を歌い掛け声をかけながら、被告丸尾や県教委関係者及び校長らの制止を振り切って集団下校した。

(4) 原告らの行為の差別性

以上のように、原告らは、自らの行ってきた同和教育が単に差別を拡大するだけの内実しかもたなかったにもかかわらず、被差別部落の解放研生徒らが、真の解放教育を願い、解放研の設立と同和教育についての話合いを求めるや、右の要求は解放同盟の指導によるものであるとの誤った前提にたち、解放同盟に対する偏見と誤解から、解放研生徒を解放同盟による校内支配の先兵であるとみなし、その要求を拒否することによって学校教育のなかから右生徒達を切り捨てていったのみならず、ハンガーストライキをしている解放研生徒を見捨てて集団下校することにより、見殺しにしようとしたのである。このことは、原告らが、被差別部落の生徒や親達の解放への願いと要求を踏みにじり、真の解放教育を放棄することによって差別を拡大していったことを意味するのであり、原告らの行為には重大な差別性が含まれていると断ぜざるを得ない。

(三) 原告らの差別行為に対する糾弾

(1) 糾弾共闘会議の結成並びに糾弾に至る経緯

ア 前記のような状況のもと、八鹿高校の教師らの姿勢は誤りであるとの共通の認識に支えられ、解放研生徒を支援し、教師と生徒の話合いを実現するため、昭和四九年一一月一八日、南但支連協傘下の各支部、八鹿高校育友会及び地域の労働組合等によって正常化共闘会議が結成され、被告丸尾が議長となった。そして右組織は、同月二〇日糾弾共闘会議と名称を変更し、その日から連夜、八鹿高校の校庭で、教師と生徒の話合いを求めて抗議集会を開いた。

イ 糾弾共闘会議の中核である南但支連協では、解放研生徒が同月二一日ハンガーストライキに入ったため、翌二二日中に何とか教師と生徒の話合いを実現しなければ生徒らの生命、健康が心配であると判断し、二二日午前一〇時から八鹿町民ホールで抗議集会を開くことを予定し、被告らは、二二日早朝から八鹿高校の校長室で、校長や県教委の関係者らと事態の進展について協議していた。

ウ 原告らは、前記のように、二二日朝登校した後、突然集団で下校し始めた。原告らのこのような行動は、当時誰一人として予想していなかったことなので、被告らは驚いて校庭に飛び出し、校長や県教委の関係者らと原告らの下校を阻止しようとしたが、原告らは隊列を組み、制止を振り切って強引に下校してしまった。なお、この時、ハンガーストライキ中の生徒の母親が一〇名位飛び出してきて、原告らに駆け寄り、「わたしたちの子供が命をかけておるんだから、何とか外に出ずにおって欲しい。」と手を握ったり、服を掴んだりして懇願したが、原告らはこの訴えを無視し、校歌を歌いながら下校してしまった。

エ 原告ら下校の事実は、直ちに八鹿町民ホールに参集していた解放同盟員らにも伝えられ、驚いた解放同盟員らは、直ちに八鹿高校から国鉄八鹿駅に通じる道に向かって駆けて行き、立脇履物店前で原告らの集団に出会った。

オ 原告らは、立脇履物店前で、原告丁川及び同戊原の指示により、スクラムを組み固まって座り込んだ。その時、解放同盟員は一〇数名程度で原告らの人数よりはるかに少なく、原告らが前に進めない状態ではなかった。次々と解放同盟員らが立脇履物店前に駆けつけてきたのは、原告らが座り込んだ後である。

(2) 糾弾の状況

ア 解放同盟員らは、立脇履物店前に固まって座り込んだ原告らに対し、口々に「何で帰らんならんのや。」「明日から休みやのにどうするんか。」「生徒を殺す気か。」などと激しく詰め寄ったが、原告らは、ただ黙って下を向いたまま、返事をしようとしなかった。そのため、被告丸尾は、原告らに対し、学校に戻って解放研生徒と話し合ってくれるよう説得したが、原告らが黙って座り込んだままこれに応じようとしないので、交通の妨害を避けるため、解放同盟員らに対し、原告らに学校に帰ってもらい話し合ってもらうよう指示した。解放同盟員らは、原告らに対し、学校に戻ってくれるよう説得し、説得に応じない場合は腕や手を持って立たせるなどしたうえ、徒歩又は自動車で学校に戻ってもらった。原告らの中には、説得を聞き入れて、自ら歩いて戻った者も多くいた。

イ 解放同盟員らは、まず、原告らに校内の第二体育館に集合してもらい、糾弾会を開いた。そこでは、解放同盟員らは、当初、「何故解放研生徒と話し合わないのか。」「何故ハンストをしている生徒をそのままにして帰ったのか。」などと原告らに質問していたが、原告らが相手になる素振りさえ見せなかったため、部落差別の苦しみや自らの被差別体験を話し、原告らの話合い拒否が部落差別の現れであることを指摘したうえ、解放研生徒やその親達の願いを必死になって訴えた。解放同盟員らは、原告らが被差別部落民の気持を理解しようという立場に立ってくれさえすれば、原告らの行動が解放研生徒らにどう受けとめられているか、解放研生徒らの心にどんな傷を与えてきたか理解できる筈であると思った。原告らの自己変革を、そういった問いかけのなかに求めていたのである。

ウ こうした解放同盟員らの必死の訴えにより、同人らとの話合いに応ずることを表明した原告については、静かに話し合える場所として会議室もしくは解放研部室に案内し、そこで更に八鹿高校の同和教育や差別の現実について話し合った。そして、その結果、自己の行為の誤りに気付き、反省していると認められた原告については、自己批判書を作成してもらった。原告らの中には、解放同盟員の話に耳を傾け、自らの教育姿勢や教育内容の誤りを認める者もいたが、頑に沈黙を守り、解放同盟員らを無視し続ける者もいるなど対応は様々であったが、解放同盟員らは粘り強く部落差別の現実を語って聞かせた。また、自己批判書の内容については、原告らの任意に任せていたが、その内容が不充分な場合には、何が不充分であるかを具体的に指摘して更に話合いを続けた。解放同盟員らは原告らとこのように話し合うことにより、原告らの自己変革を求めたのである。

エ 解放同盟員らは、自己批判書を作成した原告については、順次休養室などで待ってもらい、全員の自己批判が終了した午後一〇時ころ、再び原告らに第一体育館に集合してもらって、多数の解放同盟員や糾弾共闘会議のメンバーと原告らが、机をはさみ対峙する形で短時間の総括糾弾会を開いた。そこでは、被告らは、部落差別の重みや教師らへの期待がいかに大きいものであるかを述べ、今日の糾弾会の結果、原告らが自己の教育実践の差別性を自己批判したことを確認し、今後は差別のない教育をすることを原告らに確認してもらって、午後一一時前ころ総括糾弾会を終了した。

オ このように、糾弾に際し暴力は一切使っておらず、立脇履物店前や第二体育館では、原告らがハンガーストライキ中の生徒らを見捨てて下校したため、感情的になった糾弾共闘会議の構成員もいたが、解放同盟の主だった活動家や、婦人部・青年部に所属して日常的な活動に参加していた人々は、気がつく限り注意して感情に溺れた行動はやめさせており、糾弾そのものは整然と行われた。

(四) 被告らの行為の正当性

原告らが自己の同和教育の誤りを認めず、あくまで解放研生徒との話合いを拒否して集団下校するということは、ハンガーストライキまでして話合いを求める解放研生徒を学校教育の中で切り捨て、見殺しにすることと同じであった。従って、解放研生徒にハンガーストライキをやめさせ、原告らと解放研生徒との話合いを実現させるためには、どうしても原告らを校内に連れ戻し、糾弾することが必要であったのであり、そうすることが、原告らの差別教育を改めさせる最も有効かつ現実的な方法であった。

また、原告らを校内に連れ戻す際には、単に手や腕をもって路上に立たせた程度であり、他に何らの暴行脅迫も加えていないうえ、校内における糾弾会も、終始整然と行われており、原告らに対し暴行脅迫は一切加えていない。

従って、これら諸般の事情を考慮すれば、本件における被告らの原告らに対する糾弾は、社会的相当性を有するものであり、なんらの違法性も帯びておらず、正当な行為であるというべきである。

2  過失相殺

仮に被告らの行為に行き過ぎがあり、違法性が認められるとしても、本件は、前記のように、解放研生徒が解放研と同和教育について話合いを要求したにもかかわらず、原告らが、解放研生徒を単に解放同盟による校内支配の先兵であるとみなし、その要求をあくまで拒否したことに端を発しているのであり、原告らのこのような態度は、生徒を抜きにした、あまりに政治的観点にとらわれすぎた硬直した態度であるといわざるを得ないし、また、事件当日の集団下校にしても、ハンガーストライキをしている解放研生徒を放置して集団下校するということは、あまりに性急で思い切った態度であり、他にとるべき何らの方法もなかったとはいえず、原告らが真にハンガーストライキをしている解放研生徒やその父兄の心情を思うならば、右のような態度は教育者としてとり得なかった筈である。以上要するに、本件における原告らの態度には、教育者として適切さを欠くものがあり、日頃部落差別に苦しむ被告ら及び本件に加巧した解放同盟員らにとって、原告らの態度が差別的なものと映ったとしても無理からぬものであった。

よって、本件の責任の一端は原告らにもあるから、慰謝料額の算定においては、前記の諸事情をもって大幅に過失相殺すべきである。してみると、原告らは、本件について既に兵庫県から多額の和解金の支払を受け、その損害に補填しているから、被告らに請求すべき残存損害額はないというべきである。

四  仮定抗弁に対する認容及び原告らの反論

1  認否

被告らの行為が正当行為であるとの主張及び過失相殺の主張はいずれも争う。

2  反論

(一) 糾弾行為の本質について

今日、解放同盟は、差別糾弾の名のもとに、差別教育をしているとか、差別行政であるとか、一方的に決めつけ、確認会、糾弾会への出席を強要し、更に、その目的は差別者に対する抗議とともに教育であり、糾弾を通じて差別を見抜き、差別を許さない体制をつくり上げていくなどと称しているが、その実質は集団による暴力である。

確認会、糾弾会に名を藉りた解放同盟の糾弾の第一の特徴は、それが、多くの場合、幹部によって指導され組織的に行われていることである。解放同盟の幹部自身が暴力の先頭に立つことも少なくないが、仮にそうでなくても、解放同盟の幹部が教唆、煽動し、その容認、庇護のもとに集団暴力が繰り広げられているというのが実体である。幹部の意図に反して、激情に駆られた一部の解放同盟員が偶発的に暴力に走ったというようなものではないのである。

解放同盟の暴力的な確認会や糾弾会の第二の特徴は、それが、一方では自治体当局や学校当局に向けられ、補助金や各種の援助金及び様々な利権を獲得したり、解放教育と称する独自の考えによって公教育を支配することをめざして、当局を威嚇、恫喝する手段に用いられ、他方では、このような解放同盟のやり方を批判する者に対し、批判の言動を暴力によって封殺する手段として行われていることである。そして、重要なことは、右のような不当な目的をもって確認会や糾弾会を行うため、部落差別とは無縁の事象をとらえて差別があると強弁し、これを口実に集団暴力による恫喝を行っているということである。

ところで、解放同盟は、「糾弾は差別に対する抗議と教育である。」との主張をしている。不当に権利を侵害された人が、それに抗議し是正と現状回復を求めることは当然といってよいが、民主的国家、法治国である以上、それはあくまで言論によるべきものである。集団の力を背景に犯罪になるような脅迫、恫喝を加えることが許されるわけはない。教育と言っても、公教育ではないのであるから、法律的に見ても相手方の同意が必要である。また、教育と言うからには、教育する者と教育される者との間に、一定の基本的な信頼関係が必要であるのに、無理やり集会に連れ出したりすることは、それ自体反教育そのものである。いわんや一方的な言い分で市民を監禁したり、拉致して恫喝し、暴力をふるうやり方が正当化される理由は全くない。

解放同盟はしばしば「差別を取り締まる法律がなく、差別に対する法的救済に限界があるので、糾弾は必要なものであり、正当な権利である。」とも言う。しかし、法的救済に限界があるのは何も部落差別だけでなく、いろいろの人権侵害、差別にもあるのである。この場合、法的手続きによることなくその権利侵害に対して抗議し、是正を求めることができるのは当然であるが、これは、憲法が保障する言論表現の自由の行使としてのみ正当性を持つのである。部落差別に対する抗議なども、右のようなものとしてのみ正当なのであり、それ以上のものではない。この抗議などの権利行使は、相手方に対し、強制力を使うことはできないのである。もし、市民が差別的言動や態度をとったとしても、啓蒙と文字通りの教育的説得を行うのが限度であり、そのことが差別の解消に役立つのである。脅迫と暴力によってたとえ差別した者を屈伏させたところで、差別解消に役立たないどころか、一層差別を拡大させるであろうことは見易い道理である。

解放同盟は差別糾弾を自救行為のように主張することもある。しかし、もともと差別者から説明や自己批判を求めることが任意になされる限り、自救行為が問題となることはない。相手方の自由意思を強制し、集団の力であくまで非難し、反省書を強要することが予定されているから、自救行為が問題となる。法律上の自救行為は、違法行為が例外的に緊急止むを得ない場合に容認されるもので、この例外をとらえて、常に糾弾権があると主張するとすれば、「違法なことを常に行う」と宣言するに等しく、到底権利といえるものでないばかりか、論理的にも矛盾している。

(二) 差別行為の認定

解放同盟は、差別性の認定基準を被差別部落民にとって利益であるか否かという点に求めている。この命題は、被差別部落住民にとって不利益な問題であっても部落差別とのかかわりのない事柄はいくらでも存在しているにもかかわらず、事実関係を逆転してとらえたうえ、被差別部落住民にとって不利益な問題をすべて身分差別だけでとらえる非現実的、非科学的な見解であることは誰の目にも明らかである。更に、右認定基準は、解放同盟がその主観的判断で差別と認定さえすれば糾弾が許されるという暴論と暴挙を合理化する論拠にもなりうるのである。

また、差別意識は、自己が意識するとしないとにかかわらず、客観的普遍的に空気を吸うように一般大衆の中に入りこんでいるものであるとする考えが解放同盟の糾弾行為の支えとなっているが、このような考え方によれば、被差別部落民以外はすべてこの世に生を受けて以来はじめから差別する側にあることとなり、自然に誰から教えられるということもなく差別者として成長していき、ただ被差別部落民以外の人間として存在することの故のみをもって糾弾されなければならないということになり、まことに不合理であり、糾弾行為を正当化する口実にしかすぎない。

(三) 原告らの行為の正当性

(1) 八鹿高校における同和教育

八鹿高校では、既に昭和四五年に同和対策室が設置され、同和教育に対する積極的な取組みが行われてきた。職員研修会を定期的に開催したり、同和地区の住民との学習会に教職員が積極的に参加することにより、同和問題に関する教職員の意識を高め、また、全学年を通じたカリキュラムに同和問題を取り上げ、生徒の年令、成長に応じて同和問題を段階的に理解させるように努め、あわせて、副読本を活用したり、同和ホームルームを特設したり、映画会や講演会を開催することにより、生徒の同和問題に関する認識、理解を深めさせてきた。更に、被差別部落出身生徒の就職差別をなくすべく、企業に対し就職調査アンケートを実施するなど、八鹿高校の同和教育は、多面的かつ木目こまやかで、県教委をはじめ関係各方面から高く評価されてきた。

(2) 解放研の実態

南但馬における中学校や高等学校では、昭和四八年暮から翌昭和四九年初めにかけて解放研が組織されはじめ、特に高等学校においては、昭和四九年六月二二、二三日の一泊研修会から同年九月八日の但馬高校連合解放研(以下「連合解放研」という。)の結成の前後にかけて、殆んどの高等学校で解放研が作られた。しかし、右解放研は、生徒会クラブの一つという形で作られているものの、「教師の差別性」を取り上げ、「差別意識を洗い落し、差別と闘う人間に変革する。」などと称して、教師に対する校内確認会を組織することを主たる目的としているほか、「他校解放研との交流、共闘」などと称して他校教師に対する確認会に参加することも予定しており、更に、解放研生徒のこれら行動は、解放同盟就中、その青年部の指導を受けることになっている点で、他の生徒会クラブとは本質的な違いを持っていた。

昭和四八年に結成された南但支連協は、解放同盟中央本部の運動方針をそのまま取り入れ、教育行政の関係者や教師は真に部落問題の社会的存在意義を理解したうえで同和教育を実践していないと規定したうえ、まず教師に対し「部落差別を捉える三つの命題」(差別の本質、差別の社会的存在意義、社会意識としての差別観念)を承認させ、「差別という概念規定を自らのものにして、差別をなくす教育理論と実践方法を打ち出すこと」を求め、そのために教育行政と学校現場における関係者全員の総学習、総点検の実施を要求することを基本方針に掲げているが、これを受けるかのように、連合解放研の規約では、顧問、参与は解放同盟員及び但馬地区高校教員に委嘱すると定め、闘争方針として、まず、教師は社会意識にまでなっている差別観念に毒されきっていると規定したうえ、教師の人間性、同和教育に対する姿勢を正しくしていくため確認会、糾弾会を実施することを掲げているほか、「常に部落解放同盟と連帯していく必要があり、それは具体的な闘いを進める時、必ずその学校の所在するところの支部と連帯し、また南北但の連絡協議会とは常時連絡をとり、指導を受ける必要がある。」とし、解放同盟の指導を至上のものとしているのであって、解放研が校内の生徒の自主的組織ではなく、教育現場における教師の総学習、総点検を実施するため組織された解放同盟県連合各支部もしくはその青年部の下部組織としての性格を有していたことは明らかである。したがって、解放研が校内の同好会組織として存在することには、教育上多くの問題があった。

(3) 解放研生徒に対する対応

ア 話合いの経過

(a) 八鹿高校に解放研の設立を求める具体的要求は、昭和四九年二月の卒業式の席上、Nら二名の女子生徒から突然出された。しかし、生徒らから、それに続く具体的行動はなかった。年度の変った同年五月一日、卒業式の席上Nと行動を共にした女子生徒外一名の生徒が、教頭に校長との話合いを申し入れたが、翌日右申入れは撤回された。その後、同月四日、生徒自治会担当の原告戊山のもとに解放研を作るための同好会申請用紙を取りに来たり、同月一一日、原告丁原秋夫に解放研の顧問になってくれるよう就任要請に来たりすることなどがあり、漸く解放研作りの具体的行動が始まった。

(b) そのため、教職員は、同月一三日、右原告丁原と原告丁野二夫が右生徒達と話合いをもち、更に職員会議を開いて検討した。職員会議においては、既に同好会として存在する部落研と別に解放研を八鹿高校内に作らせることは好しいことではなく、また、解放研の組織・行動上の問題、教育上の問題から解放研を要求する生徒とは粘り強く話合いを続けていくこと、原告丁原秋夫への顧問就任要請については、個人では決めず職員会議に諮って決めていくこと等を確認し、現実に五月一三日から六月二〇日ころまで、右原告丁原や右生徒達の担任教師が粘り強く生徒との話合いを続けた。

しかし、解放研を要求する生徒達の主張は、「解放研は同和地区の者だけで構成したい、部落研は学習ばかりで行動がない、ほかからの指導が受けられるから、学校の指導は受けない、確認会をどんどんやってゆきたい。」などというものであり、これでは、八鹿高校の同好会やクラブとは大きくかけ離れた異質のもので、到底受け入れがたいものであったので、教師側の粘り強い指導にもかかわらず、右話合いは、ついに平行線のままであった。

(c) 八鹿高校において解放研の設立をめぐりこれを要求する生徒達と教師らとの話合いが続けられていたころ、但馬同和教育推進協議会高校部会が主催し、解放同盟南北但支連協、県教委但馬文教府が後援する一泊研修会が六月二二、二三日の両日にわたって実施されることとなり、右研修会実施にむけての実行委員会が六月一五日開かれ、八鹿高校からも原告丁原二夫と部落研生徒が出席した。しかし、実行委員会では、解放同盟側が主導権を握り、参加生徒も自由にものが言えなかったり、教師でさえ指導の手が届かないような形で一泊研修会が計画されていることが問題となり、更に、解放研の必要性をめぐってモデル確認会なども予定されていることが分ったため、八鹿高校職員会議では、六月二一日、生徒も職員も右研修会には参加しないことを決めた。

(d) ところが一泊研修会には、職員会議の決定を無視して、八鹿高校から教頭と解放研を要求する生徒八名が参加した。右研修会の席上、解放研を作らせず、解放同盟の方針に従わない八鹿高校が糾弾の対象となり、教頭は、被告丸尾を含む研修会参加者に詰め寄られた結果、七月中には解放研を八鹿高校に作らせること並びに当日はじめて公表された六月三〇日の「継続研修会」にも八鹿高校から参加することの二点を強引に約束させられてしまった。

(e) そこで、八鹿高校では、六月二五日職員会議を開き、右教頭から研修会の報告を聞いた結果、前記約束は教頭の真意ではなかったこと、職員会議の決定を破ったことは悪く、一泊研修会での約束は撤回することを教頭と共に確認し合った。その後六月二七日、解放研を要求する生徒が教頭のもとに同好会申請用紙を持ってきて校長の顧問就任を要請したが、教頭は職員会議の右決定に基づきこれを断った。

(f) しかるに、校長及び教頭は、県教委から六月三〇日の継続研修会に参加するよう指示されるや、再び職員会議の決定を無視してこれに参加した。右研修会の席上、校長らは、被告丸尾ら解放同盟員及び他校解放研生徒らから、長時間に及ぶ糾弾を受け、心身共に限界に達する状況のなかで七月中には解放研を作らせるという先の約束を文書で再確認させられた。七月四日、五日の八鹿高校職員会議では校長らの継続研修会参加と解放研問題が議論され、校長から、県教委が三〇日の参加につき職務命令を出したことを確めたが、解放研を七月中に作らせる件については、職員会議の決定を守り、解放研の発足を事実上先行させるようなことはしないことを確認し合った。

(g) 一方、解放研を要求する生徒達は、一泊研修会への参加が具体化した頃から、解放研に関する話合いを教職員とはしなくなった。いわば解放研を作ることをめぐる話合いは、生徒の方から一方的に打ち切った形となった。右生徒らは、解放研を要求する交渉相手を、正規の機関である職員会議や生徒自治会から、校長、教頭という管理職に切り替えたのである。

(h) そして、このような経過を経て、校長、教頭は、数度の職員会議での確認を無視し、同年七月三〇日、教頭を顧問に据え、本館二階に異例の部室を提供して、解放研を作らせてしまった。

(i) このように、学園のルールを無視して作られた八鹿高校解放研は、夏休み中、他校と共同して連合解放研結成に向けての準備に取り組み、新学期早々の九月八日に開かれた連合解放研の結成大会に参加した。しかし、校内では日常的に特に目立った活動はなく、専ら校外の確認会、糾弾会に参加している様子であったが、九月下旬の文化祭では生徒側の実行委員会の計画を無視して活動したり、校内でのビラ貼りは生活指導部の許可印がいるのに、教頭の私印ですませたりするなど、校内のルールを無視する行動が多く、また、その活動費、例えば部旗の購入費は、校長のポケットマネーで賄われるなどの特別扱いを受けていた。

(j) 一方、教職員は、校長や県教委に対し抗議や公開質問状を出すなど、校長の翻意を促す努力を続けたが、校長らの態度は堅く、事態は進展しなかった。

(k) このような中で、一一月一二日、突然、解放研の生徒が、教頭を通じて、同和教育室室長の原告丁原二夫に対し、同月一六日土曜日の午後二時から解放研と同和教育室の先生で話合いがしたいと申入れてきた。しかし、その内容等は一切明らかにされなかった。そこで、原告丁原は、同和教育室で相談することを約束し、教頭を通じて回答する旨伝えた。

(l) 翌一三日、同和教育室会議で右申入れについて検討したが、教職員側としては、解放研が作られた前記の経緯から解放研そのものを認めておらず、その問題を巡って校長らと交渉中であること、また話合いの目的、内容も不明であることから、今回の申入れには応じかねることを決め、一五日、その回答が解放研の生徒に伝えられた。

(m) これに対し、解放研の生徒達は納得せず、同日、右原告丁原に対し、「何故話ができないのか、納得のできる返事を聞くまで授業には出ない。」として校長室に居座った。そのため、原告丁原は教頭から生徒を説得してほしいと要請され、校長室に赴いたが、右生徒らから、「生きるか死ぬかの問題だ。今すぐ回答せい。」と激しく迫られ、生徒達が授業にも出ようとしなかったことから、その場を収拾するためやむなく、個人の立場で解放研生徒との話合いに応ずることにした。

(n) 原告丁原二夫の右個人的回答については、同月一六日の当日開いた職員会議で議論されたが、既に情報を聞きつけて八鹿高校朝来分校の解放研顧問の教師等が八鹿高校校内に来ていることが現認されており、話合いといっても確認会、糾弾会に発展するおそれが強いこと、当日の職員会議に同席した教頭が、外部の者を入れないように努力はするが、絶対に入れないと保障はできないと回答したこと、和田山商業高校の例からみても、今回のように土曜日の午後という時間の設定には、時間の区切りの保障がなく、確認会、糾弾会を予定した時間設定ではないかという問題があるなどの理由から、今回の申入れにはやはり応ずるべきではないということになった。

職員会議の右結論は、教頭から直ちに解放研の生徒に伝えられたが、生徒達は納得せず、激しく抗議し、興奮状態となって収拾がつかなくなったため、学校にまだ残っていた教職員で再び協議した結果、結局同和教育室のスタッフ三名(原告丁原二夫、同丁原秋夫、同戊野)が「外部の人は入れない、時間は午後四時まで」という条件を付けて話合いに応ずることになった。

(o) 同和教育室の三名の教師と解放研生徒約一〇名との話合いは、午後三時ころから第三職員室で始まり、まず生徒の側から、教師側が何故話合いを拒否したのか、解放研を何故認めないのかという二点について質問が出て、教師の側がこれに答えると、その後は教師側を罵倒する場となり、第三職員室内には外部の者や八鹿高校朝来分校職員らが入りこみ、近くの第一職員室にも解放同盟員らが入りこんで解放研生徒を支援する様相を呈し、生徒らも興奮して話合いを続行できる状態ではなくなったため、同日午後五時半ころ、教師側は終了を宣言して第三職員室を出た。そして、待機中であった教職員と共に下校したが、教師側が職員室から出ようとする時、戸を外から押さえられたり、また、帰途、自転車で道を塞がれたりするなどの妨害を受けた。

(p) 翌一七日の日曜日、八鹿高校教職員は前日の状況から事態が悪化することを予想し、神鍋の民宿で職員集会を持ち、一六日までの状況の説明と一八日からの授業の持ち方について協議した。そして、そこで、一八日からの授業は正常に行うことを決めた。

(q) 一八日、月曜日の朝、教職員が登校すると、八鹿町内には解放車が入り、八鹿高校の糾弾を叫び、八鹿高校正門前では解放同盟員らがビラを配っていた。校内には外部の者が入りこみ、職員室前には二〇余名の生徒らが座込みをしていた。更に職員室には、「差別教師糾弾」等のポスターが壁や窓一面に貼りめぐらされ、教職員の机の引出しの中にもビラが入れられ、机の上に釘でとめてあるものまであった。

教職員は、同日のショート・ホームルームの時間に、一般の生徒に対して一六日までの経過と状況を説明し、座り込んでいる生徒に対しては授業に出るよう説得した。

(r) 同日、解放研は、教頭を介して八鹿高校の教職員に対し、(1)解放研の顧問を更に三名つけること、(2)解放研と教師との話合いをもつこと(但し、連合解放研並びに運動団体役員を含む。)(8)八鹿高校の同和教育は部落の解放と全ての生徒の幸せにつながっていないことを認めること、の三項目の要求を通告してきた。しかし、教職員は、同日放課後、右三項目の要求について職員会議で検討し、受け入れないことを決めた。

(s) 翌一九日、校内では前日と同様、外部の者が入り込み、座込み生徒と一緒にシュプレヒコールをしたり、座込み生徒が教師を八ミリで撮影するという状況もあった。教職員は、同日三校時終了後、解放軍がマイクでがなりたてる中、再度職員会議を開き、座込み生徒が求める三項目の要求事項について、現状では受けいれ難いことを再確認した。この日、正常化共闘会議から七項目からなる闘争方針が発表されたが、その内容は「解放研の要求貫徹をはかる。解放研は座込みを続け、各組織は必要に応じ、動員その他の支援闘争を行う。解放研の生徒から断食闘争の申出があるので、状況によりその闘いを具体化する。五万人以上の総括集会を行い、勝利を宣言する。」などというものであった。

(t) 一一月二〇日、糾弾共闘会議の本部が八鹿町役場に、現地闘争本部が八鹿高校の応援室にそれぞれ設置された。

当日、ゼッケンを着用した座込み生徒の父兄や解放同盟員二〇余名が八鹿高校の職員室に押しかけ、放課後開かれた職員会議では、校長が、八鹿高校に向けて糾弾の準備が着々と進められ、事態は緊迫していると述べるなど、文字どおり緊迫した状況になり、その日の教職員の集団下校が、動員された解放同盟員及び糾弾共闘会議構成員らによって妨害された。

(u) 二一日、前日及び前々日よりも校内へ動員された解放同盟員や糾弾共闘会議の人数が増加し、授業も正常には行えなくなり、この日の午前中、校長から教職員に対し、「正午を期して座込み生徒が断食闘争に入る」旨の通告があった。同日午後二時頃、校長から「二時から断食闘争に入る」との二度目の通告があり、午後四時ころ、座込み生徒による断食闘争が開始された。

イ 原告らの対応の正当性

前記のように、八鹿高校教職員に対し、話合いを申し入れたり、三項目の要求を突きつけた解放研は、学校教育の一環として一定の教育的配慮のもとに設立が承認されるクラブや同好会とは相入れない性格をもっており、発足の経過も所定のルールを無視したものであった。また、解放研生徒らの話合いの要求も、学校外の運動団体役員らの参加を条件とするもので、教職員側の指導に従わない強圧的なものとなることが明らかに予想されるものであった。しかも、八鹿高校には、かねてより部落研があり、活動を続けているのであって、解放研を要求する生徒らが部落研に加入し、顧問の指導を受けながらより活発な活動を目指すことは十分可能な状況にあった。

さればこそ、八鹿高校職員会議は繰り返し、慎重に協議した結果、解放研の設立を承認せず、解放研生徒らの話合いその他の三項目の要求を受け入れなかったのである。

教師も生徒もそれぞれに独立した人格を有している。学校教育の場においても生徒の人格権が尊重されなければならないことは言うまでもない。また、全て国民は教育を受ける権利を有しており、教師の教育権も根源的には児童・生徒の学習権、発達権にその基礎を置いていると言えよう。しかしながら、だからと言って、学校において教師と生徒は常に対等であり、教師は生徒の要求を必ず受け入れなければならないなどと考えることは間違いである。生徒・児童は未成年であり、精神的にも肉体的にも未発達の段階にある。教師は専門的・科学的な立場から生徒・児童の発達段階に応じた教育を行う。そこでは単に知識の伝授だけではなく、人間的な触れ合いを通じて生徒・児童の人格的向上が企図されている。そのためには、教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序が維持されていることが必要である。解放研生徒らが教師の差別性を論じ、校内確認会や校内糾弾会に教師の出席を強要したうえ、集団で乱暴に教師を罵倒するなどということは、かかる良好な教育的秩序を根底から破壊するものであり、それが学校教育の否定につながることは自明の理である。このような無法な要求や暴力的行為にはいささかの正義もないのであって、原告らが解放研を承認せず、その話合いの要求を拒否したことは当然である。

(4) 原告らの下校措置

ア 原告らの下校

原告ら八鹿高校教職員は、一一月二二日午前八時三〇分頃国鉄八鹿駅に到着し、集団で八鹿高校に向かった。町内には「死か勝利か」の糾弾ポスターが貼られており、また、八鹿小学校グランドには駐車場が設営されているなど、糾弾の準備が着々と進められていることが窺えた。更に、登校の途中、二台の解放車につきまとわれ、「この教師らの笑顔はいつまで続くんでしょうか。」と意味ありげな放送をされたり、ビラを配っていた教師と解放同盟員がもめた際、止めに入った解放同盟員が「今は行かしたれ。」と言ったり、また、校門前で、ビラを配っていた男に「お前ら、今日は楽にしたるわな。」と脅迫されたりした。原告らは、午前九時前に八鹿高校に入ったが、校内にもゼッケン、鉢巻をした一〇数名の解放同盟員がおり、グランドには前日から集会用の投光器が備えつけられ、また、勝利集会用と思われる演壇用資材が運び込まれていた。

このような騒然とした状況の中、南但馬一円に班分けまで具体化した動員要請が糾弾共闘会議から出されているとの情報も入手したため、原告らは、登校後直ちに職員会議を開き、原告丁原の提案により、速やかに年次休暇をとって集団で下校することの是非を検討した。その結果、二二日は、翌日からの連休の前日にあたり、解放同盟が解放研生徒のハンガーストライキをやめさせ、原告らを糾弾して勝利集会にもちこむ最後の機会であるから、授業を終えてからでは恐らく校内を無事に出ることはできなくなるだろうと判断し、一名の教師の反対はあったものの、その他の教職員全員の意思で、可及的速やかに集団下校することを決定した。そして、原告らは、各担任のクラスで生徒にその旨を説明した後、全員で図書館に集合し、午前九時四〇分ないし四五分頃集団で下校した。

イ 下校措置の正当性

解放同盟員ら外部勢力による、原告ら教職員に対する暴力糾弾は必然性をもって予定されていた。一一月一八日解放同盟員らによって結成された正常化共闘会議は、二〇日には糾弾共闘会議と名称を変更しており、その闘争方針には「五万人以上の総括集会を行い、勝利を宣言する。」と明記されている。すなわち、暴力糾弾によって、原告ら教職員を屈服させ、勝利宣言をすることが解放同盟員ら外部勢力の当初からの予定であった。

しかも、このような解放同盟の糾弾闘争の計画・準備に対し、原告ら八鹿高校教職員の生命身体を守り、教育の独立と学校の自治が外部勢力によって侵害されることのないよう全力を挙げてこれを擁護すべき責任のある校長や県教委が、あろうことに解放同盟に屈服して自らの職責を完全に放棄し、解放同盟の言いなりになって、原告らに対する解放同盟の暴力的糾弾を側面的に手助けするという異常さであった。さらに、当時は、警察当局も糾弾闘争と称する解放同盟の一連の集団暴力に眼をつぶり、これを見過ごしていた。原告らは、自らの生命身体の安全を守るため、警察力に期待することさえできない状態にあったのである。

従って、以上のような緊急事態に直面した原告らが、下校措置によって自らの生命・身体・名誉を守り、あわせて教育の独立と学校の自治を擁護しようとしたことは極めて正当であって、何人もこれを非難することはできない。

第三証拠《省略》

理由

一  当事者

本件のいわゆる八鹿高校事件が発生した昭和四九年一一月二二日当時、原告らがいずれも兵庫県立八鹿高等学校(八鹿高校)の教職員であったこと、被告丸尾が解放同盟兵庫県連沢支部長及び八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議(糾弾共闘会議)議長、被告山本が部落解放同盟南但馬支部連絡協議会(南但支連協)の会長であったことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  本件の背景事情等

1  南但馬における解放同盟の組織及び活動状況

《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  兵庫県南但馬地方(養父郡及び朝来郡の二郡八町と美方郡のうちの村岡町、美方町を指す)。には二二のいわゆる被差別部落が存在し、その住民は従来から劣悪な生活環境や結婚、就職差別等に苦しんできたが、昭和四八年五月に部落解放兵庫県連合会が部落解放同盟中央本部に組織加盟し、部落解放同盟兵庫県連合会(解放同盟兵庫県連)と改組したことを契機に、南但馬の各被差別部落にも、同年七月解放同盟兵庫県連の支部が設置され、これに伴い南但支連協が結成されるとともに、同年一〇月には南但支連協青年部が発足し、組織が次第に整備されるに伴い、朝来町沢支部の青年部員を中心に活発な運動が展開されるようになった。

(二)  解放同盟兵庫県連は、昭和四八年五月の定期大会において、運動の基本方針に解放同盟中央本部の提唱する部落差別をとらえるための三つの命題(すなわち、「(1) 部落差別の本質は、部落民に市民的権利が行政的に不完全にしか保障されていないこと、なかでも就職の機会均等の権利が保障されていないため、主要な生産関係から除外されていることにある。」「(2) 部落差別の社会的存在意義は、独占資本の超過利潤追求の手段として部落民を主要な生産関係の生産過程から除外し、相対的過剰人口のなかで停滞的、慢性的失業者の地位におとしこむことで、部落民に労働市場の底辺をささえて一般労働者の低賃金、低生活のしずめとしての役割を果たさせ、政治的には部落差別を温存、助長して部落民を一般労働者と対立させ分割支配する道具として利用していることにある。」「(3) 社会意識としての部落民に対する差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活化した習慣と伝統の力、多様な形で与えられる教育の作用によって、自己の意識するとしないとにかかわらず、客観的に空気を吸うように一般大衆の中に入り込んでいく。」というもの)を掲げた。これを受けて、南但支連協が同年七月の結成大会で採択した運動方針は、行政当局に対し、まず「部落問題の解決は全て行政の責任であることを自覚させること」などを目標に運動を進めていくことを確認し、教育については、「現在までは、真に部落問題の社会的存在意義を理解し、教育の責任分野にどのように関わってくるのか、そして教育の内容をどのように改めてゆくか、ということについては、多くの問題と課題をかかえている。同時に教育行政の関係者も教師も、これを完全に理解した上で、現在の地位を得たものでなく、特別措置法以来、ようやく自らの学習をしなければならない気持になったばかりであって、同和教育としての実践は乏しいのが現状である。」と規定したうえ、「この意味で教育行政と現場においては、関係者の総学習、総点検の実施を要求する。」「教師自らが差別とは何かの実態をとらえるために、我々が示している部落差別をとらえる三つの命題をもって差別という概念規定を自らのものにし、差別をなくす教育理論と実施方法を打ち出すこと」「教師が自らの置かれている社会的立場も知らず差別してしまう立場に置かれているという、現在社会に対する見方を自覚すること」などを要求するというものであり、そのための差別糾弾闘争は、「たえず差別者に三つの概念規定(命題)を理解させ、単に相手に誤りを気付かせるというだけでなく、自らを部落解放に積極的に協力するという立場に立たせ、その意味を不動のものにする所まで学習させることが必要である。」ことを南但馬の解放同盟員らに強く訴えたものであった。

このように、南但支連協では、既に昭和四八年度の運動方針において、教育関係者に対し解放同盟の三つの命題に従った同和教育の実践を要求していた。

(三)  昭和四九年一月、兵庫県中堅幹部職員の甲田五郎が長男に同和地区に住む八鹿高校女子生徒との交際を諦らめるよう説いた手紙の存在が明るみとなり、これを入手した南但支連協の青年部は部落差別に充ちた内容であるとして組織を挙げて糾弾活動に乗り出すことを決定し、同月二八日に甲田五郎差別文章事件糾弾闘争本部を朝来郡和田山町の旧但馬銀行跡に設置し、青年部相談役の被告丸尾(解放同盟沢支部所属、のち同支部支部長)をその闘争委員長に選び、同年二月、青年部内に糾弾闘争において指導的役割を担うべき青年行動隊なるものを作った。

この頃から、右青年部、特に青年行動隊が中心となり、南但馬各町の行政や教育関係者に対する確認会、糾弾会が盛んに行なわれるようになったが、例えば、和田山中学校における確認会、糾弾会は、同校の教師らを対象に、昭和四九年五月から七月までの数回にわたり、青年部員を含む多数の解放同盟員らが参加して、「馬鹿野郎」「差別者」などの野次が飛び交うなか、対象教師を一人一人立たせ、「何故前回の確認会に参加しなかったのか。」「生徒が日本共産党員は差別者であると発言したことに対し、教師が、それは思想信条の自由に反すると指導することは差別ではないか。」などと激しく執拗に追及して糾弾し、時には午後七時三〇分ころから翌朝午前六時三〇分ころまで続けた挙句、「これからは和中の解放研生徒と協力して部落解放のために頑張ります。」旨の文書を教師らに書かせるというものであった。

(四)  解放同盟によるこれら一連の運動と軌を一にして、南但馬の中学校や高等学校では、主に被差別部落の生徒から解放研作りの要求が出るようになり、その後、朝来中学校、和田山中学校(前述)、和田山商業高等学校などいくつかの学校で解放研が作られ、解放研生徒が教師らに対する糾弾活動の一翼を担った。

(五)  しかし、教育関係者に対する確認会、糾弾会が盛んになるにつれ、これを批判する声も高まった。当時の兵庫県教職員組合(以下「兵教組」という。)朝来支部支部長であった橋本哲朗は、解放同盟が差別であるかどうか疑わしい事象をとらえて確認会、糾弾会を持ち、教師らに暴力的に自己の差別性を認めさせることにより、解放教育の名のもと、学校教育の内容や教師の信条等に不当に介入、干渉しようとするものであり、しかもその確認会等は長時間にわたり教師らの人格の尊厳を侵す野蛮な方法、態様により行われているとして、同調者らの支援の下に兵教組朝来支部組合員や朝来郡内の住民を対象に右確認会、糾弾会を批判する大量のビラを配るなどして、強くこれに反発した。

これに対し、被告丸尾を中心とする解放同盟員らは、確認会等を批判するビラの配布は悪質な差別キャンペーンであり、解放運動を妨害し、ひいては被差別部落民を苦しめるものであるとして、組織を挙げ実力をもってこれに対抗した。その結果、昭和四九年九月八日から同年一〇月二七日までの間、南但馬において解放同盟員らによる暴行、傷害、監禁事件等が相ついで発生した。

2  南但馬における解放研の組織及び活動状況

《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  南但馬における中学校や高等学校では昭和四九年初めころから解放研が作られるようになったが、特に高等学校では、同年六月二二、二三日の一泊研修会(後述)から同年九月八日の但馬地区高等学校連合部落解放研究会(連合解放研)の結成前後にかけて、殆んどの学校に解放研が作られた。

なお、解放同盟中央本部は、昭和四九年度の活動方針として、「職場、学園に解放研を組織する」ことを決め、解放研は、できるかぎり解放同盟青年部員や部落の青年を中心に組織し、解放同盟の指導を受けることを指示している。

(二)  右連合解放研は、その目的について、「本会は、部落解放運動五〇余年の歴史と伝統に学び、部落解放同盟と連帯しながら各校の解放研が結集し、但馬地区における各校に解放教育を確立させ、完全解放の絶対を期すること」(規約二条)と定め、「本会は部落解放同盟との連帯をもちながら活動し、各校の解放研の連絡協議を行う。」(同五条)、「顧問、参与は部落解放同盟会員及び但馬地区高校教員に委嘱する。」(同一三条(2))として、解放同盟との連帯を強調するとともに、各校において行なわれている同和教育は、「全く部落差別の実態、つまり我々部落民の一日一日の生活をも理解していない教師によって行なわれるのであるから、それは本から得た知識をただ言葉の上だけで生徒に伝えるということに終始していて、又、自らが社会意識にまでなっている差別観念に毒されくさりきっているため、そのただ本から得た知識をもねじまげて表現する結果となり、それは我々部落民にとっては許しがたい行為であり、部落差別を温存、助長する結果となっている。」殆んどの教師は、「自己の教師生命を賭けて、必死で同和教育に取り組んで」いないとの現状認識のもとに、「これからの闘いにおいて我々が一致して求めていかねばならないのは、まず各校に真の解放教育を確立させるということである。現在の差別教育、教師の怠慢を許しておいてはならない。そのためには、まず我々自身として真の解放教育とは何かについて学習し理論を確立し、そして各校において学習会はもちろん確認会、糾弾会等を通して教師の人間性、同和教育に対する姿勢を正していかなくてはならない。」との闘争方針を掲げ、更に、「我々は闘いの中で常に部落解放同盟と連帯していく必要があり、それは具体的に闘いを進める時、必ずその学校の所在する所の支部と連帯し、また南北但の連絡協議会とは常時連絡をとり指導を受ける必要がある。」として、解放同盟の指導を至上のものとしている。

このように、連合解放研傘下の各校解放研は、解放同盟の指導の下に確認会、糾弾会を通して教師の差別性を追求し、各校に「解放教育」を確立することを目的としているのであって、解放研を教師の指導の下で学習活動を行なうクラブや同好会の一つとして認めることは、学校教育上重大な問題を内蔵していた。

(三)  当時の各校における解放研の活動状況は、和田山商業高等学校及び朝来中学校にその例をとると、次のようなものであった。

(1) 和田山商業高等学校

ア 昭和四九年一月、同和サークルが名称変更して解放研が生まれた。しかし、これに先立つ昭和四八年一二月、突然、のちに解放研に参加した生徒が校長に対し、同校の同和教育に対する姿勢を激しく追及するとともに、一二月二三日開催予定の南北但支連協主催の第四回部落解放奨学生但馬ブロック集会への協力を要請した。その頃、個々の教師に対しても、「奨学生集会の準備に取り組んでいる生徒に頑張れよと声をかけたことは、同和問題を他人事としてしか受け止めていない証拠である。」「国語の試験問題に部落という用語を使ったことは問題である。」、また「右奨学生集会に出席した教師の中に、最後の頑張ろう三唱の時、手を上げる回数の少ない者がいた。」などを理由に追及がなされるという事態が発生した。

イ 昭和四九年一月一六日、解放研生徒から全教職員に同和教育に関するアンケートが実施され、これに対する回答に基づき、同月二一日と二三日に解放研生徒と教職員との学習会が開催された。いずれの学習会にも解放同盟の青年部員が無断で参加し、「テープを取らせろ。取らせないのは差別だ。テープを取らせないのであれば、自分達も話合いに加わる。今日の学習会は部落民との話合いであるから、青年部が加わることを認めよ。」「青年部を断わるとは糾弾ものだ。」などと主張して学習会を混乱に陥らせ、同月二七日には糾弾会の開催を申し入れてきた。校長と教頭は県教委の指導に従い糾弾会に出席したものの、他の教職員は理由のない糾弾は受けないとしてこれに参加しなかったところ、解放研生徒から執拗に確認会、糾弾会への出席を要求された。

ウ その後、同年六月三〇日の継続研修会(後述)の席上、校長が自校や他校の参加生徒らに強く要請され、やむなく「来る七月二〇日の確認会には全教職員を出席させる。全員が出席しない場合は同和教育を返上する。」旨の確認書を書いたところ、同年九月一八日に至り、右七月二〇日の確認会に出席しなかった教職員がいることを理由に、解放研生徒が同和教育の授業をボイコットする始末であった。

エ また、同年一〇月二一日、同和教育の一環として、三年生を対象に狭山事件関係の映画を上映しようとしたところ、解放研生徒は、学校に乗り込んできた被告丸尾ら解放同盟青年部員らと共に、右映画は差別映画であるとして電源を切ったり、映写機の前に立ち塞がるなどの妨害行為をして上映を中止させたうえ、自分達の選んだ映画を勝手に上映するなど、学校の教育活動に支障を生じさせた。

(2) 朝来中学校

ア 昭和四五年ころから学校と被差別部落の地区代表者との間で同和教育について話合いが持たれるようになり、昭和四六年から被差別部落の生徒を対象に学力促進学級が開設され、「希望学級」と名付けて、全教師の参加のもと地区の福祉会館で補習授業が行なわれるようになった。そして、昭和四七年四月、同校の足立教諭が顧問になり被差別部落の生徒を主メンバーとする同和研究クラブが発足したが、昭和四九年一月右クラブは解散し、新たに解放研が作られた。

イ 解放研は、活動方針として同和学習会(解放へ向けて立ちあがるための学習会)、校内確認会、他校との交流会(他の中学校にも解放研ができるように働きかけ、解放教育を拡大推進する活動)を重視し、教頭ら学校管理職も校内確認会は同和問題の最高の学習の場であると積極的に推奨し、全教師に協力を求めた。右校内確認会は解放研が主催し、予め対象教師を指名したうえ他の教師も参加させ、学年単位で放課後体育館又は教室で当該教師の差別行為を追及するという形式で行なわれた。右確認会の目的は、建前としては、教師が生徒に部落差別をした時は、教師と生徒という関係でなくお互いに一個の人間として教師の差別行為を確認し、これを通して教師に対し自らの意識の変革を求めるとともに、生徒を部落差別と闘う人間に育て解放へ向けて立ち上がらせる教師に変革することであるとされたものの、実情は、「清掃の時間さぼっていた被差別部落の生徒を先生が注意しなかった。」「テストの机間巡視の際、先生が被差別部落の生徒の机の中を覗いた。」ことなどが差別行為とされ、解放研生徒がその教師を一方的に糾弾するという体のものであった。

ウ また、解放研生徒は、「希望学級」に参加していた女教師が終電車に間に合わないため進行係の足立教諭に退席の許可を求め、足立教諭が生徒の許可なくこれを許したことを取り上げ、二人のとった行動は誤りであり、日頃「希望学級」の主人公は生徒たちであると教えていることとも矛盾しているとして、昭和四九年七月二二日、二人の教師に対する確認会を同校体育館で開いた。右確認会には二五〇名位の同校生徒、教師のほぼ全員、それに生野中学校の解放研生徒や解放同盟沢支部の青年部員数名も参加したが、生野中学校の解放研生徒を引率してきた同校教師が開始時刻に遅刻し、その理由を尋ねた生徒の質問に心外だとの態度を示したため、解放研生徒は、同和教育の場でも指導者の態度で生徒に接しているとして同教師を糾弾し、その間、数名の生徒が、足立教諭や右生野中学校教師の回りを、「部落解放」とか「糾弾」とか叫びながら駈け回り、生野中学校の教師は、「生野中でも確認会を受ける」旨の確認書を書かされるなどした。

3  八鹿高校における同和教育

《証拠省略》を総合すると、以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  八鹿高校では、個々の教師により、以前から同和地区の子供会の勉強をみたり、授業で部落の歴史を教えるということが行なわれてきたが、昭和四四年七月の「橋のない川」上映中止事件(養父郡八鹿町が中心となり進めていた同映画の上映運動が、同和地区の人たちの反対で中止になったもの)や、昭和四五年度から教員定数が同和加配として一名増員になったことを契機として、昭和四五年五月、職員会議の諮問機関として同和教育の計画立案、執行を行う同和対策室(昭和四九年四月から「同和教育室」に改称された。)と、同和対策室が立案した同和教育の原案などを討議する審議機関としての同和教育推進委員会がそれぞれ設けられ、八鹿高校として同和教育に取り組む体制ができあがった。

(二)  八鹿高校の教師たちは、同和対策室を中心に積極的に同和問題に取り組み、校区の各町教育委員会が主催する同和地区の学習会に長期にわたって自主的に参加したり、全教職員を対象に年一〇回位の研修会を開催したり、外部から講師を招いて講演会を開いたり、あるいは就職差別をなくすべく企業に対し就職調査アンケートを実施して差別の実態を調査するなど、地道で多面的な活動を展開していた。

(三)  また、生徒に対しては、同和教育をカリキュラム化し、年一〇回位の同和教育の授業の中で、一年生には憲法を中心とした人権学習、二年生には人権侵害の歴史、三年生には部落差別の実態と解放への展望についてそれぞれ学習させ、生徒の発達に応じた同和問題の段階的な理解を図るとともに、講演会や映画会を企画するなどして、生徒たちの理解を深めさせようと努力していた。

(四)  八鹿高校には、生徒の同好会の一つとして昭和四五年に部落問題研究会(以下「部落研」という。)が発足し、常時一五名程度の生徒が参加して部落問題について学習したり、部落問題を語る会」などを開催したりしていた。また、全国レベル、府県レベルの高校生集会にも参加するとともに、同和地区での合宿学習会を企画、実施するなど、積極的な活動を行なっており、教師も部落研の顧問を中心に、その活動を援助していた。

三  本件に至る経緯

《証拠省略》を総合すると、以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  昭和四九年二月二五日に行われた八鹿高校卒業式において、同校三年生N、二年生Hの被差別部落の生徒二名が、式の終了間際、突然前に出て、「他校の同和地区の生徒が部落差別のため自殺した。こうしたことを繰り返さないために八鹿高校にも解放研を作って欲しい。」と訴え、唐突な感はあったが、これが端緒になって同校でも被差別部落の生徒を中心に解放研を求める動きが起った。なお、卒業式の当日、式場の片隅には南但支連協の青年部員数名も姿を見せており、Nらに対し発言のタイミングを指示していた。

2  その後、これに続く具体的行動はなかったが、年度が変わった同年五月一日、右H外一名の生徒が教頭に「四日に解放研のことで校長と話がしたい。その時に和商など他校の生徒も同席させ、テープをとらせて欲しい。」と申し入れてきた。ところが、翌日になると、右Hらはその申入れを撤回した。

3  同月四日、Hは生徒自治会担当の原告(43)戊山のところに同好会の設立申請用紙を取りに来たが、同月一一日になって白紙のままの右申請用紙を持参し、原告(19)丁原秋夫に解放研の顧問になってくれるよう要請した。そのため、右丁原は他の教員と相談し、ひとまず同和教育室主任の原告(44)丁野二夫と二人で一三日に生徒と話し合い、その趣旨を確かめることとなった。

なお、八鹿高校における同好会の設立手続は、まづ同好会の名称、生徒責任者、顧問教諭の氏名を申請用紙に記入し、生活指導部に提出、その後顧問会議、職員会議、最終的には生徒自治会の承認を得なければならないことになっていたが、実際には、顧問になる教諭が予め顧問会議や職員会議の内諾を得てから申請手続に入るのが実状であった。

4  同月一三日の話合いは、解放研を何故作りたいのかその趣旨を確かめる形で、「八鹿高校には部落研があるのだから、その中で活動したらどうか。」「現在の部落研の活動に不充分な点があるなら、生徒同士で議論をすべきではないか。」などの教師側の質問、意見に対し、出席した三名の生徒たちの回答は、「自分たちは勉強する必要がない。ただ行動あるのみだ。」というものであり、活動内容については、「校内の差別事象を点検していく。」「詳しい活動内容については組織を作ってから言う。」「校外の活動には付いてきてくれなくてよい。」「先生は名前だけ貸してくれたらよい。」などというのみで、詳細を明らかにすることは拒否する態度であった。

5  そのため、八鹿高校の教職員は同月一五日職員会議を開き、丁野二夫から解放研要求生徒との話合いの経過の報告を受けたのち、対応について協議した。職員会議では、解放研を求める生徒たちが解放同盟の運動をそのまま学校内に持ち込もうとしているのではないかと懸念しつつ、(1)八鹿高校には部落問題を学習する同好会として既に部落研があり、この他に解放研を作ることは生徒間の対立を招く恐れがあり、教育上好ましくない、(2)解放研を要求する生徒との話合いは、今後も粘り強く継続していく、(3)顧問要請の件については個人で決めず、職員会議に諮って結論を出す、の三点を確認したうえ、解放研問題は、以後、丁原秋夫を窓口に生徒との話合いを続けることにした。

6  その後、解放研要求生徒との話合いは、丁原秋夫を中心に、担任教諭も手伝って、同年六月二〇日ころまでに断続的に一〇回位持たれたが、生徒側は、「解放研は同和地区の者だけで構成したい。」「部落研は学習ばかりで行動がない。」「学校の指導を受けなくても他からの指導が受けられる。」「確認会をどんどんやっていきたい。」などと述べるばかりで、教師側の意見には耳を貸そうとしなかった。しかし、生徒の主張する解放研の姿は活動、指導の両面で校内の同好会とは異質なもので、学校教育上も重大な問題を内蔵するものであったため、教師側も生徒の要求は到底受け入れ難く、結局、話合いは平行線のまま推移し、一泊研修会(後述)を境に、生徒の方から話合いに来なくなってしまった。

7  このような状況下の同年六月六日、八鹿高校の珍坂校長は、県教委但馬教育事務所長の要請に基づき、前記和田山町の甲田五郎差別文章糾弾闘争本部で被告丸尾と会見した際、同被告から八鹿高校に解放研を設置するよう強く要請された。

8  この頃、但馬同和教育推進協議会高校部会が主催し、解放同盟の南北但支連協、県教委但馬文教府が後援する「部落解放に立ち上がる高校生の一泊研修会」が同月二二、二三日に実施される構想が明らかとなり、その準備のための実行委員会が同月一五日開催され、八鹿高校からは、原告(44)丁野二夫と部落研生徒一名が参加した。実行委員会には解放同盟南北但支連協の役員も出席しており、その席上被告丸尾が、「教師は条件整備さえすればよい。一泊研修会は生徒が主体だから教師が口出しする資格はない。」などと発言して教師の指導を封じたうえ、他校の解放研生徒が中心となって会を運営したため、八鹿高校の参加生徒は自由にものが言えず、実行委員会は解放同盟の主導のもとに担当教師でさえ指導の手が届かないような形で運営され、しかも一泊研修会では、解放研の必要性をめぐり、南北但支連協の青年部が協力して、「モデル確認会」が予定されていることなども分った。

9  八鹿高校の教職員は、右丁野から報告を聞き職員会議を重ねた結果、実行委員会の運営そのものが民主的とはいえず、加えて一泊研修会に「モデル確認会」が予定されていることは学習を主体とすべき高校生の活動として教育上好ましくないものと判断し、校長、教頭も出席した六月二一日の職員会議で、一泊研修会には生徒も教職員も参加しないことを決議した。これに基づき、参加を予定していた解放研要求生徒らに対し、各担任を通じて一泊研修会には参加しないよう説得した。

10  ところが、六月二二、二三日の一泊研修会には、八鹿高校から被差別部落の生徒数名が参加し、生徒引率のため小田垣教頭も出席していた。右研修会では、和田山商業、日高、八鹿の三高校に対し「モデル確認会」が行われ、小田垣教頭は、被告丸尾ら研修会参加者に、「八鹿高校ではなぜ解放研が作れないのか。」と激しく詰めよられた結果、八鹿高校の解放研を七月末までに作ること、また当日初めて明らかにされた六月三〇日の「継続研修会」にも参加することの二点を約束させられた。

11  八鹿高校では、六月二五日に職員会議を開き、小田垣教頭から、一泊研修会の報告を受けたが、教頭から職員会議の決議に反して一泊研修会に参加したことは悪く、今後は職員会議の決定に従う旨の陳謝があり、更に前記二点の約束は教頭の真意ではなかったことの確認を得たので、継続研修会には全員絶対に出席しないこと、教頭がした解放研承認の約束は撤回するよう努力することを校長、教頭を含む全員一致で決議した。その結果、同月二七日解放研要求生徒から、教頭に顧問就任要請があった際、教頭は職員会議の右決議に基づき、その要請を拒否している。

12  しかし、珍坂校長と小田垣教頭に対し、県教委から職務命令が発せられたため、両名は止むなく継続研修会に出席したが、被告丸尾の見守る中、他校の解放研生徒ら多数の参会者から長時間に及ぶ激しい糾弾を受け、心身共に疲労の限界に達する状況の中で、七月末までに解放研を作ることを再び文書で約束させられた。

13  七月一日と四日に開いた八鹿高校職員会議において、校長及び教頭は、教職員に対し、継続研修会への出席が止むを得ないものであったことを釈明し、七月末までに解放研を作る約束は撤回するよう努力し、今後は職員会議の決議を守り、事実を先行させないことを再度約束した。

14  しかるに、珍坂校長らは、七月五日、県教委から、解放同盟と連帯して同和教育を推進する県教委の方針に従うよう強く指導されると、やはり解放研は認めざるを得ないのではないかと教職員に漏らしたり、動揺を繰り返していたが、同月一五日、同和教育室に対し、「諸情勢から解放研は認めざるを得なくなった。今朝、教頭に解放研の顧問を命じておいた。職員会議の承認は得ていないが。」と、外部の圧力、介入をにおわせながら、解放研の設置を通告してきた。このため、教職員は、同月一七日から一九日まで校長室に座り込み、校長の右決断に抗議した。

15  七月三〇日、珍坂校長は、ついに解放研の設立を承認し、顧問に小田垣教頭をあて、同校本館二階に部室を提供した。しかし、同校規則に定めた設立手続を無視しているばかりか、同好会は予算も部屋もつかない筈なのに、部室までも供与される別格の扱いに生徒たちも反発し、教師にも抗議する事態になったため、同和教育室の原告丁野二夫、同(9)乙川、同(42)甲山及び同(49)戊野が、翌三一日珍坂校長の自宅に赴き、解放研設置の撤回を要請したが、校長は、「本来のルールを無視して作ったことは悪いと思うが、解放研を作ることで外部からの介入が防げる。」「八鹿高校の解放研は模範的なものにしたい。」と弁明するのみで、教師の要請には応じようとしなかった。

そのため、八鹿高校教職員は校長に公開質問状を出したり、生徒たちも校長のとった措置に抗議するなど、学校内は解放研の設置をめぐり混乱状態となった。

16  このような事態を憂慮した育友会(PTA)は、校長と教職員の双方に学校教育の正常化を要請し、さらに九月二九日には育友会代議員会において、県教委に対し、直ちに関係者を八鹿高校に出向させ教職員を指導すること、解放同盟兵庫県連と積極的に協議し八鹿高校の教育を正常化することなどを要請することを決議し、事態の正常化を図った。これに対し、県教委は、直ちに主事らを八鹿高校に出向させ、教職員との話合いの場を持つなどして解決の斡旋をしたものの、教職員が南但馬の緊迫した現実の情勢を説明しながら、教育の主体性や学校の自治に対する不安を訴えるのに対し、主事らは、同和教育は解放同盟と連帯して推進していく必要があると答えるのみで、何ら具体的な助言や指導はなく、事態は一向に好転しなかった。

なお、その頃、南但馬では、九月八日に連合解放研が結成された外、解放同盟の確認会等を批判するビラの配布に端を発した解放同盟員らによる暴行・傷害・監禁事件等が多発し、解放同盟の運動は激しさを増していた。

17  一一月一二日、突然解放研の生徒が、顧問の小田垣教頭を通して、同和教育室の原告丁野二夫に対し、同校の同和教育のあり方などについて話合いがしたいと申し入れてきた。右丁野が直接生徒に会って確かめたところ、同月一六日土曜日の午後二時から同和教育室の先生と話し合いたいと言うので、同和教育室で相談することを約束して、一四日に教頭を通じて回答する旨伝えた。

18  丁野二夫は、翌一三日、同和教育室のスタッフ会議を開いて検討したが、解放研は職員会議や生徒自治会で正式に認められていない組織であり、校長や県教委とも話し合い中なので、解放研との直接の話合いは避けるべきだ、また話合いの目的、内容、条件等も一切不明であり、確認会、糾弾会に発展する恐れなしとしないなどの理由から、解放研との話合いは拒否することに決定した。

19  右の回答は、翌一四日教頭にすることになっていたが、当日校長、教頭共に不在だったため一五日朝校長を通じて解放研の生徒に伝えられた。同日昼すぎ、解放研の生徒が丁野二夫のところへ来て、「何故昨日返事しなかったのか。」と抗議するので、右の事情を説明したが、生徒は納得せず、午後の授業にも「納得いく返事を聞くまでは授業に出ない。」と言って、校長室に引っ込んでしまった。その後、校長室の小田垣教頭から電話で、解放研の生徒が教頭の説明では納得しないから来てほしいとの要請があり、右丁野が、「午後の授業が始まっているから生徒を授業に行かせてほしい。顧問から生徒の指導をちゃんとすべきだ。」と言って要請を拒否したところ、教頭が職員室にやって来て、丁野に対し、「何とか頼みます。」と何度も懇願するので、丁野は止むなく応接室に赴き(来客のため、解放研の生徒は校長室から隣の応接室に移っていた。)、約一〇名の生徒たちに対し、今は授業が始まっているのだから、とにかく授業に出るよう説得するとともに、同和教育室での討議の内容を説明したが、生徒たちは納得せず、「何で話合いに応じられへんのや。」「わしらにとっては授業より一刻一秒が大事なんだ。」「命にかかわる問題なんだ。」「先生の都合と部落差別を受ける人とどっちが大事なんや。」などと激しく迫り授業に出ようとしないため、丁野はその場を収拾して何とか生徒を授業に出席させるため、止むを得ず個人的になら話合いに応じてもよい旨回答した。

20  右の経過を踏まえて、同和教育室のスタッフで協議したところ、重要な問題だから職員会議にはかるべきだとの結論になり、翌一六日の授業終了後、急遽職員会議が開かれた。そこでは、一部に一旦話合いに応ずると回答した以上約束は守るべきだとの意見も出たが、既に情報を聞いて八鹿高校朝来分校の解放研顧問の教師が校内に駆けつけて来ていることや、話合いといっても一方的な確認・糾弾会にされてしまう恐れが強いこと、また職員会議に同席した教頭からは、外部の者を入れないように努力はするが絶対に入れないという保障はできないということであり、土曜日の午後という時間の設定は時間の区切りの保障がなく、他校の例をみても確認会、糾弾会を予定した時間であること等の理由から、多数意見は今回の話合いには応ずるべきでないという結論となった。この結論は、教頭から直ちに解放研の生徒に伝えられたが、解放研の生徒たちは納得せず、激しく抗議して収拾のつかない事態となったため、校内に残留していた教職員で再び協議した結果、結局、同和教育室の原告丁野二夫、同丁原秋夫、同戊野の三名が外部者を入れないこと、時間も同日午後三時から四時までの一時間とすることの条件で話合いに応じることになった。

21  話合いは、午後三時ころから第三職員室で、右教師三名と解放研の生徒約一〇名との間で始まった。解放研の生徒たちは窓に解放研の旗を掲げ、ゼッケン、鉢巻をつけた確認会、糾弾会のスタイルで、当初は、「何で約束破ったんや」「解放研を何で認めないんや」「どんな同和教育をしているのか」などと尋ねていたが、そのうち次第に興奮してきて、教師側の答えが気にくわないと、「先生、そんなこと言うてよう教壇に立っているな、月給やるのおしいわ、」「アホ、バカ、差別教師、にやにやするな、横を向くな」などと罵詈雑言を浴びせ、教師に対し一方的に罵倒するようになり、教師の話は全く聞こうとしなくなった。しかも途中から、朝来分校解放研の顧問教師二名が窓から入ってきて生徒をけしかけたり、他の職員室や廊下には多数の南但支連協の青年部員や他校解放研の生徒らが押しかけていて、第三職員室は内外共に騒然とした状態となった。このため午後五時三〇分ころ、校内に残っていた多数の教職員が丁野二夫ら三名を第三職員室から救出する形で連れ出し、一斉に集団下校したが、その際、教職員の多くは解放同盟員や解放研の生徒の激しい妨害に会った。

22  解放研生徒は、八鹿高校教師らに話合いの意思はないものとして不満の情をたかめ、連絡を受けて駆けつけた被告丸尾らに当日の状況を説明して解放同盟の支援を要請する一方、他校の解放研生徒も混じえて相談した結果、一一月一八日から抗議のため同校職員室前廊下に座り込むことを決め、前記甲田五郎差別文章糾弾闘争本部で抗議のビラを作成したうえ、翌一七日、南但支連協青年部員の協力を得て、「八鹿高校糾弾」「差別教育糾弾」「最後の血の一滴まで斗うぞ」「あわれな教師集団よ、日共のピエロか」などと書いたポスターを学校内のいたる所に多数貼り出した。

なお、この頃、被告丸尾、同山本は、八鹿高校の会議室に八鹿町内の解放同盟各支部長、育友会役員、小田垣教頭らを集め、対策会議を開き、八鹿高校の「教育正常化」闘争について協議した。

そして、一一月一八日、解放研の生徒二一名は、三項目の要求(「(1)八鹿高校解放研の顧問をさらに三名つけること(但し、その人選は解放研の希望を受け入れること)、(2)八鹿高校解放研と先生との話合いを持つこと(但し、連合解放研並びに解放同盟の役員を含むこと)、(3)現在、八鹿高校の同和教育は部落の解放とすべての生徒の幸せにつながっていないことを認めること」)を掲げ、予定どおり、職員室前の廊下で座込みを開始した。

23  一方、八鹿高校の教職員は、一六日の状況から事態が更に悪化することを感じ取り、翌一七日の日曜日、兵庫県高等学校教職員組合の支援を受け、神鍋で職員集会を持ち、今後の対応策、就中一八日からの授業の持ち方などについて協議した。そこでは、授業だけは何としても平常通り行って行くことを申し合わせ、同時に万一に備えて教職員間の緊急連絡体制なども取り決めた。また集会が終るころ、用事で先に帰り学校に立ち寄った職員から、学校には解放車が入り込み明りが煌々とついていて職員室には沢山のビラが貼られていること、職員室前の廊下には荊冠旗がぶら下げられ毛布やジュウタンなどが敷いてあるなど、校内の異常な様子について報告があったため、改めて協議し、翌一八日の朝は八鹿町内に集合して集団登校することを決めた。

一方、この日、解放同盟側は、各支部長らを動員して、同和地区在住の八鹿高校在校生の父兄に対し、生徒を座込みに参加させるよう働きかけを行った。

24  翌一八日朝、八鹿町内にはいわゆる解放車が入り、八鹿高校の糾弾を叫んだり解放歌を流したりしており、八鹿高校の正門前でも解放同盟員らがビラを配っていた。校内にも外部の者が立ち入り、職員室前では解放研の生徒が座込みを開始しており、教職員を見かけると立ち上がってシュルプレッヒコールを浴びせていた。更に職員室の中は、「差別教師糾弾」等のポスターが天井、壁、窓、机の上など所せましと一面に張りめぐらされ、机の抽出しにも入れてあったり、机に釘で止めてあるものもあるなど、異様な状態であった。しかし、教職員は、この日平常通り授業を行い、座込み生徒にも授業に出るよう声をかけた。同日昼ころ、原告丁野は、育友会長、八鹿町助役、解放同盟下網場支部長及び県教委の主事らから事態の説明を求められた際解放研生徒から前記三項目の要求が出ていることを知らされ善処方を依頼されたので、放課後の職員会議で検討したが、右三項目の要求は八鹿高校教職員にとって到底受け入れることのできないものであった。

一方、被告丸尾は、同山本と協議のうえ、解放研生徒を支援するため、一八日夜、八鹿町民ホールに解放同盟南但支連協や南但各支部をはじめ解放同盟と連帯する南但各町の職員組合、育友会など多数の団体を糾合し、「八鹿高校教育正常化共闘会議」(正常化共闘会議)を結成し、被告丸尾がその議長となり、本部を右町民ホールに、現地闘争本部を同校校長室隣の応接室にそれぞれ設置した。正常化共闘会議は、二〇日、「八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議」(糾弾共闘会議)と名称を変更したが、その闘争方針は、「解放研の要求貫徹をはかる。解放研は座込みを続け、各組織は必要に応じて、動員、その他の戦いを行なう。」「解放研の生徒より断食斗争の申出があるので、状況により、その戦いを具体化する。」「五万人以上の総括集会を行ない勝利を宣言する。」など七項目からなるものであった。

25  一一月一九日は交通ストのため、教職員は三三五五登校したが、この日も前日同様、校門前では解放同盟員らがビラを配っており、職員室前廊下では、解放研生徒二〇名余りが朝から座り込み、支援に駆けつけた他校の解放研生徒らと一緒に教職員にシュプレヒコールを浴びせたり、教師を八ミリで撮影したりした。

ストのため授業が三時限が打ち切られた後は、教職員は、解放車がマイクで叫びたてる中、職員会議を開き、解放研生徒の要求について再度協議したが、三項目はいずれも学校内部で解決すべき事柄であるのに、外部の力を借り圧力で自己の要求を貫徹しようというやり方では到底受け入れ難いとして、拒否することを重ねて確認することとなった。なお、職員会議の途中、県教委の主事らが、「どうなっても知らんぞ」と教職員を恫喝する一幕もあり、また事態収拾のため解放研生徒との速やかな話合いを指示する県教委名義のメモも教職員に手渡された。

26  一一月二〇日、八鹿高校の教職員はこの日も集団で登校した。八鹿町内に解放車が入り、校門前で解放同盟員らがビラを配り、職員室前の廊下に解放研生徒が朝から座り込んでいるといった事態は前日と同様であった。教職員は、この日も、職員会議を開いたが、前日の県教委の指示に対しては、「解放研生徒の座込み、外部の教育介入など異常な事態を一斉に解き、昭和四九年五月以前の状態に戻すことを要求する。」ことのみを回答したにとどまった。

また、一校時に各教室でホームルームを持ち、一八日以降の事実経過や教職員の考えを生徒に説明したが、座込みをしている解放研生徒も各教室を回って自分達の主張を訴え、座込みへの参加を呼びかけた(その結果、座込み生徒の数が一時的に急激に増え、一五〇名を越えたこともあった。)。同日昼ころ、ゼッケンをつけた解放研生徒の父兄を含む解放同盟員二〇名余が職員室に押しかけ、教職員に抗議したり、また、この日、生徒自治会が解放研についてアンケート調査をしようとしたところ、アンケートに「解放研(未公認)」という用語があるのは「差別」に該るとして被告丸尾に抗議され、教頭があわてて回収したため生徒がこれに抗議するという事態も生じた。

さらに二〇日には、教職員が集団下校しようとすると、校内に入り込んでいた他校の解放研生徒や解放同盟員ら多数が職員室の出入口を塞いで下校を妨害し、職員室のガラスが割れるなどの緊迫した事態も発生し、外部の不穏な動静から単独行動に不安の声も出はじめたため、教職員はこの日から集団で城崎の民宿に宿泊することとなった。

なお、正常化共闘会議は、二〇日糾弾共闘会議に名称を変更し、本部と現地闘争本部の間に直通電話を架設した外、二〇日、二一日の連夜午後七時ころから約二時間、大規模なデモ及び抗議集会(八鹿町民ホールから八鹿高校まで集団示威行進し、同校本館前広場で抗議集会を開くもの)を開催し、多数の解放同盟員らがこれに参加した。また南但支連協の青年部員らを中心に、八鹿高校教職員の態度を非難、攻撃する多数のビラ(斗争ニュース)が街頭で撤かれたりした。

27  一一月二一日、八鹿高校の教職員は、城崎の民宿から集団で登校し、途中、解放同盟による不当な教育介入の実態を町民に訴えるビラを配った。校内へ動員された解放同盟員らの人数が増加し、一日中騒然とした状況の中で授業も正常には行なえない状態であった。

解放研生徒は、この日も座込みを続けていたが、何ら進展のみられない事態を不満として、要求貫徹を図るため、同日午後四時からハンガーストライキ(断食闘争)に入り、同日夜は、父兄らと一緒に校内に泊り込んだ。

被告丸尾は、同山本と相談のうえ、右事態に対処するため、同日夜の抗議集会終了後、解放同盟南但各支部支部長らを現地闘争本部に呼び集め、ハンガーストライキに入った生徒の健康状態からして、連休前日の翌二二日中にはどうしても八鹿高校教師と解放研生徒の話合いの機会をつかむ必要がある旨説明し、そのために翌二二日午前九時ないし一〇時に八鹿町民ホールに解放同盟員らを五〇〇人程度集めるよう動員を指令したが、その際、教師側が集団休校することを恐れ、動員は隠密裡にせよと指示した。

他方、八鹿高校の教職員は、この日午後四時三〇分ころ集団下校し、宿泊地の城崎に向かったが、八鹿町内のあちこちには、「死か勝利か」と大書した解放研生徒のハンガーストライキ突入を知らせる糾弾共闘会議の速報が貼り出されており、また城崎の民宿で各地の情報を集めたところ、解放同盟による動員指令、それも屈強の若者の動員や地域ぐるみの炊出し動員の指示も出ているなどの情報がもたらされたため、翌二二日の糾弾はやはり必至であると判断し、二二日当日の行動について全員で協議した。しかし、なかなか意見の一致をみず、結局、一応登校するだけはして、その後の判断は、同和教育室主任の原告丁野二夫に一任することとなった。

28  翌二二日(昭和四九年一一月二二日)、この日はいわゆる八鹿高校事件の発生した日である。同日、原告ら八鹿高校教職員は、城崎の民宿から集団で登校し、午前八時三〇分ころ国鉄八鹿駅に着いた後、徒歩で八鹿高校に向かった。途中、八鹿小学校のグランドに臨時の駐車場が設けられているのが目撃された他、二台の解放車にぴたりと付きまとわれ、「この教師たちの笑顔はいつまで続くんでしょうか」などと意味ありげな放送をされたり、ビラを配っていた教師と解放同盟員が揉めた際、止めに入った他の解放同盟員が「今は行かしたれ」などと言って仲間を制止したり、また校門前でビラを配っていた男に「お前ら、今日は楽にしたるわな。」などと脅されたりし、暴力糾弾を予測させる異様な雰囲気が存在した。

29  原告らは、午前九時ころ、八鹿高校内に到着した。校内には早くもゼッケン、鉢巻をした解放同盟員一〇数名が入り込み、また校庭には前日から糾弾集会用の投光器が据え付けられている他、グラウンドに「勝利集会」用とおぼしき演壇用資材が運びこまれており、これらの事情や登校時の状況及び動員指令の情報などを考慮すると、本日糾弾会が行なわれることは誰の目から見ても必至の情勢であり、このまま授業に入れば、今日は校内に閉じ込められ下校できなくなると判断された。このため、原告丁野二夫の提案で直ちに職員会議が開かれ、一名の教員が下校に反対したものの、他の教職員全員一致の意見で、今日の授業は中止し直ちに年次休暇をとって全員で集団下校することに決定した。早速各々が担当クラスの生徒に事情を説明した後、全員が図書館に集合して、午前九時四〇分ないし四五分ころ三列縦隊でスクラムを組み集団で下校し始めた。

一方、被告丸尾、同山本は、同日早朝から現地闘争本部のある八鹿高校校長室に詰めかけ、同所で県教委職員、育友会長、校長、教頭らと善後策について協議していたが、原告らが集団下校を始めたとの連絡を受けるや慌てて校長室を飛び出し、被告丸尾は解放同盟員らと共に正門付近で原告らの列の前に両手を拡げて立ちはだかり、被告山本も列の前から怒鳴り前や横から手で突くなどして原告らの下校を阻止しようとしたが果せず、被告丸尾は、付近にいた解放同盟員に八鹿町民ホールにいる解放同盟員らの動員を指示して原告らの隊列と共に移動し、被告山本は、原告らの行先である国鉄八鹿駅に先回りすべく別な道を車で八鹿駅に向かった。

30  原告らの集団下校の隊列に、同校正門付近で駆けつけた珍坂校長や県教委の職員及び育友会長らの制止にも出合ったが、これらを振り切って進み、町道栄町線(新町商店街)に出て国鉄八鹿駅に向かった。途中馬橋付近で、原告らのうち、承継前原告(59)亡丙川夏夫、原告(60)戊田冬夫及び同(61)丙野一夫の三名が隊列から離脱したが、他は若干の阻止を排除しつつ列を進め、同日午前九時五〇分ころ立脇履物店(兵庫県養父郡八鹿町八鹿一〇五七番地)前に至った。

そのころ、八鹿町民ホールには南但各支部の解放同盟員ら二~三〇〇名が既に参集していたが、原告らの集団下校の通報が入るやこれを阻止すべく、一斉に車や徒歩で原告らの進路の方向に向かい、折しも原告らの隊列が立脇履物店前に差しかかった際、まず二台の車が隊列の前を塞いで進路を断ち、次々と駆けつけた解放同盟員らが原告らを取り囲んでその場から動けないようにした。そのため、原告らは、立脇履物店前路上に押し込められる形となり、進退極まって一斉にその場にスクラムを組んで座り込んだ。

四  加害行為の存在及び原告らの被害状況

《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  承継前原告(59)亡丙川夏夫、原告(60)戊田冬夫、同(61)丙野一夫の三名を除く原告ら八鹿高校教職員が前記立脇履物店前路上にスクラムを組み座り込んでいると、これを取り囲んだ約二〇〇名の解放同盟員らが、散発的に頭部や胸部を殴打する等の暴行を加えていたが、間もなくして被告丸尾が、現場に停車中のいわゆる解放車の上からマイクで、「四人一組になってごぼう抜きにし、バラバラにして学校の体育館に連れ戻せ。」と指示すると、多数の解放同盟員らが一斉に原告らに襲いかかり、原告番号1ないし26、28、30ないし58の各原告及び承継前原告(27)亡甲野太郎、同(29)亡乙山春夫の合計五八名に対し、別表第三(不法行為態様一覧表)記載(「立脇履物店前及び付近路上」の欄)のとおり、スクラムを組んだ腕、頭や顔などを手拳で殴打したり土足で蹴り上げるなどの暴行を加えてスクラムを解かせ、無抵抗の原告らの腹、腰、背中、大腿部など所かまわず土足で蹴りつけ踏みけるなどの暴行を加え、学校に連行するために原告番号1ないし26、28、30ないし52の各原告及び承継前原告(27)亡甲野太郎、同(29)亡乙山春夫の合計五二名に対し、手、足、頭髪、えり首を掴んで一人ずつ隊列から引きずり出し、腕、足等を持って引きずりマイクロバス又はトラックに乗せ、あるいは両腕等を取って徒歩で連行するなどして、同日午前一〇時ころまでに約三〇〇メートル離れた同校(養父郡八鹿町九鹿八五番地)第二体育館(旧体育館)に連れ込んだ。

なお、原告番号53ないし58の各原告は、立脇履物店前で右暴行を受けたものの、付近の商店に逃げ込んだり救出されるなどして、その後の被害は免れた。

2  八鹿高校に連れ戻された右原告ら五二名が第二体育館にほぼ揃ったころ、被告丸尾が「一人一人バラバラにして糾弾せよ。」と指示すると、これを受けて原告ら一人ずつを数名の解放同盟員らが取り囲み、スピーカーを耳元近くにあて、「何で解放研と話し合わない。」「何故解放研を認めない。」などと怒鳴り、原告らの頭、背中、脇腹、大腿部等を殴る、蹴るなどし、頭髪を鷲づかみにして引きずり回し(このため、頭髪が束になって抜けた原告らもいた。)、あるいは頭を壁に打ちつけ、冷水をバケツで頭から浴びせ、胸ないし背中にも流し込むなど、別表第三(不法行為態様一覧表)記載(「第二体育館」の欄)のとおり、原告らの精神的、肉体的限界に達するほどの暴行を加えたため、この段階で意識不明になる者すら出る状態であった。

3  その後、原告らは本館二階の会議室や解放研部室に連行されたが、解放同盟員らは、ここでも原告らに対し、前記の方法による暴行のほか、牛乳瓶で頭を殴る、鉛筆を指の間にはさんで締めつける、南京錠で頭・顔を殴る、メリケンサックで顔面を殴打する、タバコの火を顔にこすりつけるなど、別表第三(不法行為態様一覧表)記載(「本館二階会議室」「解放研部室」などの欄)の一段と凶暴かつ凄惨な暴行を加えた。このように、第二体育館、本館二階の会議室、解放研部室等における糾弾の結果、人事不省に陥った原告らは救急車で病院に運ばれたりしたが、解放同盟員らは激しい糾弾を加えつつ、原告らに「自己批判書」の作成を強要し、その結果、別表第四(監禁強要一覧表)記載(「自己批判書等の作成」の欄)の各原告ら合計三六名は、それぞれの意思に反して、「解放研生徒と話し合わなかったことを反省する。」「今までの同和教育は誤っていた。」「今後は解放同盟と連帯して部落解放のために闘う。」などという趣旨を記載した自己批判書又は確認書の作成を余儀なくされた。

4  その後午後一〇時ころ、解放同盟員らは校内に残った原告(1)戊原ら二九名の教職員を同校第一体育館に連行して「総括糾弾会」を開き、右原告らを多数の解放同盟員らと対峙する形で前に整列して座らせ、被告丸尾の司会のもと、被告山本が総括的な挨拶をし、ついで被告丸尾が原告らに対し、自己批判書又は確認書を振りかざして自らの意思で書いたものであるとの確認を強要した。その後、被告丸尾は、解放研生徒のハンガーストライキを中止させて生徒たちを糾弾会場に入場させ、自ら八鹿高校差別教育糾弾闘争は勝利した、闘争はこれで終了する旨の宣言を行った。かくして「総括糾弾会」は午後一〇時四五分ころ終了し、原告らもようやく解放された。

5  その間、解放同盟員らは、別表第四(監禁強要一覧表)記載(「監禁時間」の欄)のとおり、原告一人につき約一時間ないし一二時間四五分にわたり、原告番号1ないし26、28、30ないし52の各原告及び承継前原告(27)亡甲野太郎、同(29)亡乙山春夫の合計五二名を同表記載(「主な監禁場所」の欄)のとおり、八鹿高校第二体育館、本館二階会議室、解放研部室、休養室及び第一体育館などに監禁し、また前記1ないし3記載の一連の暴行により、原告番号1ないし3、5ないし8、10ないし12、15ないし25、30ないし54、57の各原告及び承継前原告(29)亡乙山春夫の合計四八名に対し、別表第五(傷害一覧表)記載のとおり、治療期間およそ一週間から二か月にわたる傷害を負わせた。

6  その後、被告丸尾は、他の解放同盟員三名と共に、同年一二月二日兵庫県警に逮捕され、昭和五八年一二月一四日、神戸地方裁判所において八鹿高校事件につき逮捕監禁致傷、傷害、強要罪を構成するとして有罪の判決を受けた。

なお、被告山本は起訴猶予処分になった。

五  被告らの責任

1  被告丸尾について

本件不法行為は、上記のとおり「八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議」(糾弾共闘会議)の構成員である解放同盟員ら多数によって敢行されたものであり、被告丸尾は右糾弾共闘会議の議長であったが、前記認定の事実(三 本件に至る経緯、四 加害行為の存在及び原告らの被害状況)に、《証拠省略》を総合すれば、さらに以下の事実を認定することができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

すなわち、被告丸尾は、一一月二一日ハンガーストライキに入った解放研生徒の健康状態から、連休前日の翌二二日中には何としても教師と解放研生徒の話合いの機会をつかみたいと決意し、二一日夜抗議集会終了後、解放同盟南但各支部支部長を集めて、翌朝八鹿高校近くの八鹿町民ホールに解放同盟員ら五〇〇人程度を動員するよう指令を出したことの外、被告丸尾の本件当日の行動に関しては、朝、原告らの集団下校を知るや自ら隊列の前に立ちはだかってこれを阻止しようとし、また八鹿高校町民ホールにいる解放同盟員らに動員の指令を出し、立脇履物店前では、四人一組で原告らを八鹿高校体育館に連れ戻すよう指示し、第二体育館では、連行され奥にかたまっていた原告らを「一人一人ばらばらにして糾弾せよ」と解放同盟員らに指示し、その後午前中、校長室で救急車の手配や被害者らの入院を指示し、話合いに応じる原告らを本館二階会議室等で糾弾する手筈を整え、また解放同盟の支部長に第二体育館の見回りを依頼したり、輩下に糾弾は統制をとるよう伝達させたりし、午後二時ころ、学校近くの八木川の河原で八鹿高校の生徒有志七~八〇〇名が暴力非難のデモ行進を予定し集会を開いたところ、これを阻止すべく説得に駆けつけ、午後五時ないし午後六時ころ、本館二階会議室、解放研部室などの糾弾会場を見回り、午後九時三〇分ころ、本館前広場で開かれた糾弾共闘会議主催の抗議集会で演説した後、機動隊の突入に備えて各門のピケを指示し、午後一〇時ころ、原告らに強要して書かせた自己批判書又は確認書をまとめて青年行動隊長から受け取り、その頃、第一体育館での「総括糾弾会」開催を指示し、「総括糾弾会」では自ら司会をつとめ、闘争終了宣言をなしたこと、等の事実が認められる。

以上の事実によれば、被告丸尾は、本件当日、名実共に糾弾共闘会議の議長として動員された解放同盟員らの行動全般を指揮、統括しており、解放同盟員らによる本件不法行為につき、いずれも認識、認容しながら、ある部分については明示的に指揮し、他の部分については流れにまかせるなどして、結局、解放同盟員らと明示又は黙示に意思を通じ、本件不法行為の全部を共同して行ったものというべきである。

2  被告山本について

(一)  前記認定の事実(三 本件に至る経緯、四 加害行為の存在及び原告らの被害状況)に、《証拠省略》を総合すれば、以下の事実を認定することができ、右認定を左右にするに足りる証拠はない。

(1) 被告山本は、南但支連協会長(南但馬における解放同盟の最高指揮者)として、糾弾共闘会議の顧問的立場にあり、被告丸尾と協議のうえ、本件前夜、南但支連協支部長会議を開き、そこで被告丸尾の経過報告を聞き、動員指令を承認した。

(2) 一一月二二日の本件当日、被告山本は、朝八時三〇分ころ現地闘争本部のある八鹿高校に赴き、校長室で被告丸尾や校長、県教委職員らと善後策を協議していた。

(3) 原告らが集団下校を始めたとの一報を受けるや、被告丸尾らと校長室を飛び出し、正門付近で原告らに対し前から怒鳴ったり、前や横から手で突いたりして下校を阻止しようとしたが、果せなかった。

(4) そこで、被告山本は、先回りして待ち受けるべく原告らとは別の道を車で国鉄八鹿駅に向かい、その後、原告らが既に連行されたあとの立脇履物店前を通って八鹿高校に戻った。そして、直ちに原告らの連れ込まれた第二体育館に入り、約二、三〇分解放同盟員らによる糾弾の状況を見て回ったが、その際原告らが水をかけられたり、殴打されているのを現認した。

(5) その後校長室に戻り、被告丸尾と相談のうえ、話合いに応じる原告らを本館二階会議室などで糾弾する手筈を整え、昼過ぎ、第二体育館において自らマイクでその旨を解放同盟員らに指示した。

(6) その後も何度か本館二階での糾弾の状況を見回っていたが、激しい暴力を制止もせず、午後四時ころ生徒の有志代表が暴力をふるわれていないか確認のために校内に入った時は、マイクで、「今から生徒の代表が来る。室内を整理せい。」「暴力をふるったらあかん。」などと暴力が生徒の目にふれないような指示、工作をした。

(7) 同日夕方ころ、地元の八鹿警察署長から、校内の様子について問い合わせがあった際は、被告山本自ら糾弾現場での激しい暴力を現認し、多数の負傷者がでていることを知りながら、右事実を隠蔽し、話合いは続行中であり、午後六時か七時ころには全員の自己批判書ができあがるから、それまでは警察に介入を差し控えるよう要請し、その時刻ころになると、解放同盟兵庫県連の山口書記長を通じ、午後一〇時ころまでには終るなどと報告して引伸し工作すら行い、警察による違法行為の制止や原告らの救出を遅らせる一方、糾弾中の解放同盟員らを叱咤激励して午後一〇時までに自己批判書を全員に書かせ糾弾を切り上げるよう指示した。

(8) そして、自己批判書が揃うと、被告丸尾、右山口書記長と相談のうえ、第一体育館で最後の「総括糾弾会」を開き、そこでも被告山本は、解放同盟員らの中央最前列に被告丸尾と並んで座り、総括的演説を行った。

(二)  以上の事実関係によれば、被告山本が本件不法行為につき、共同不法行為者としての責任を負うことは明らかである。すなわち、

(1) 解放同盟員らによる立脇履物店前及び付近路上における集団暴行等については、被告山本が当時右現場にいた事実はなく(原告丙山四夫本人は「被告山本が立脇履物店前で座り込んだ原告らの前方にいた」と供述しているけれども、右供述はにわかに信用し難い。)、また解放同盟員らとの間に事前の謀議があったことを認めるに足る証拠も存在しない。しかし被告山本としては、被告丸尾と協議のうえ開いた本件前夜の前記支部長会議において、被告丸尾の経過報告や動員指令を聞き、糾弾共闘会議議長をつとめる被告丸尾が、ハンガーストライキをしている解放研生徒の健康状態を考慮し、翌二二日中には何としても教師と解放研生徒との話合いの機会をつかみたいと決意していることを知り、被告山本もこれに同調したことは十分に推認できるし、本件当日、被告らや校長らの制止を振り切って集団下校した原告らを再び八鹿高校に連れ戻すには、当日までの経緯に照らし説得による方法では到底不可能で、大なり小なりの有形力の行使が不可欠であり、そのためには被告丸尾が多数の解放同盟員らの助けを借り、ある程度の実行行使に出ること、ひいては暴行、傷害、逮捕などの不法行為が発生しかねないことも当然予見し得たはずである。被告山本は当時南但支連協会長という南但馬における解放同盟の最高指揮者の地位にあり、八鹿高校教師に対する「差別糾弾」は南但馬における解放同盟の組織を挙げた闘争であったともいうことができるから、被告丸尾を含む解放同盟員らの有形力の行使、ひいては不法行為の発生を未然に阻止し得なくはない立場にあったものである。したがって、被告山本には、少なくとも原告らが制止を振り切って集団下校した時点で、解放同盟員らによる立脇履物店前及び付近路上における集団暴行等について、これを回避するためになすべき注意義務を怠った重大な過失があるというべきであり、逮捕の点については、未必の故意さえ認められる。

(2) 八鹿高校内での解放同盟員らによる一連の不法行為については、被告山本は、南但支連協会長として、被告丸尾と並び動員された解放同盟員らを事実上指揮、統括し得る立場にあったが、事実、前記のとおり被告山本は、被告丸尾と相談のうえ本館二階会議室などで糾弾する手筈をととのえその旨を指示したり、何度か糾弾の状況を見回ったり、生徒の有志代表が校内に確認に入ると、暴力が生徒の目に触れないよう指示、工作したり、八鹿警察署長の問合わせに対し、事実を隠蔽して引伸しを図ったり、午後一〇時までに糾弾を切り上げるよう指示して自己批判書の作成を急がせたり、被告丸尾らと協議して最後の「総括糾弾会」を開き、そこでは中央最前列に被告丸尾と並んで座り、自ら総括的演説を行った。このように被告山本は、解放同盟員らの校内における一連の不法行為につき(被告山本が学校に戻る前のものについては、これを承継しつつ)、いずれも認識、認容しながら、ある部分については明示的に指揮し、他の部分については不法行為の継続を容易にしたり、流れにまかせるなどして、結局、解放同盟員らと明示又は黙示に意思を通じ合い、一体となって校内における本件不法行為の全部を共同して行ったものというべきである。

六  被告らの仮定抗弁に対する判断

1  正当行為

(一)  被告らは、解放同盟員らによる本件行為は原告ら八鹿高校教職員の差別行為に対する糾弾であるとし、被差別部落民には糾弾権があること、八鹿高校の同和教育は差別教育であったこと、また、原告らがあくまで解放研を承認せず、解放研生徒との話合いを拒否して集団下校したことは、被差別部落民に対する差別行為であったから、本件程度の糾弾は正当行為として容認される筈である旨主張する。

しかし、被告ら主張の糾弾権なるものは実定法上何ら根拠のないものであるばかりか、八鹿高校の同和教育についても、その概要は前認定(二の3の項)のとおりであり、これによれば同校の同和教育は、本件当時、高等学校の教育課程としてみれば、一応の取組みができていたものと評価することができ、少なくとも部落差別を温存助長するような差別教育でなかったことは明らかである。

以下、前認定の事実関係に基づいて判断する。

(二)  解放研の不承認について

解放研は、連合解放研の規約及び闘争方針からも明らかなように、教師は「社会観念にまでなっている差別観念に毒されきって」おり、また「必死に同和教育に取り組んで」いないため、その行う同和教育も、結局、部落の生徒を苦しめているだけにすぎず、単に部落差別を温存助長する結果となっているとし、このような教師の人間性、同和教育に対する姿勢を正し、真の解放教育を確立するため、教師に対する確認会、糾弾会を実施することを目的の一つに掲げ、具体的な闘いを進める時は、常に解放同盟と連帯し、その指導を受けることが義務づけられている。

したがって、解放研は、学校内の機構上のクラブ又は同好会の一つとして位置づけざるをえないものの、活動面では教師の差別性を論じ、教師を糾弾の対象にすることを目的とするものであるから、人間的な触れ合いと全人格的な結びつきを基礎として、教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序の維持が必要な学校教育において、その全てを根底から破壊しかねない重大な危険性を帯有しているのみならず、指導面でも、教師の指導を排除して、教育現場において関係者の総学習、総点検の実施を要求する解放同盟の指導を至上のものとしており、運動体的色彩の濃い生徒の集団であって、本来教師の指導、助言の下に学習活動をなすべきクラブ又は同好会とは全く異質のものであった。和田山商業高等学校や朝来中学校の例をみても、解放研生徒は、およそ差別事象とは認め難い教師の些細な言動を取り上げ一方的に差別行為と断定し、教師の差別性を追及すると称して確認、糾弾会に持ち込んだうえ、解放同盟の指導、支援を受けながら、教師を罵倒して吊し上げ無条件の屈服を迫っているのであって、解放研が学校教育における正常な教育的秩序と根本的に相容れない性格を持っていたことは明らかであった。

一方、解放同盟中央本部は、職場、学園に解放研を組織することを昭和四九年度の運動方針に掲げ、これを受けるかのように南但馬でも六月二二、二三日の一泊研修会から九月八日の連合解放研結成の前後にかけて、殆んどの高等学校に解放研が作られた。八鹿高校の解放研も、その設立に至る過程において被告丸尾ら解放同盟側の強力なてこ入れがあり、また当時同和教育は解放同盟と連帯して推進していくことを標榜していた県教委の強い指導もあったため、珍坂校長も止むなく同好会設立に関する規約や手続を無視し、職員会議の反対を押し切って設立を承認したもので、他の同好会には許されない部室まで与えられるなど別格の扱いを受け、他の生徒達から抗議の声が挙がるほどであった。

このような解放研の性格と実態を冷静かつ客観的に考察すれば、真剣に学校教育のあり方を考える者であれば誰しも、学校内での解放研を承認することには消極的にならざるをえない筈であり、したがって、原告ら八鹿高校の教職員が何度も職員会議を開いて慎重に検討を重ねつつ、終始一貫して解放研の設立に反対し、校長が設置に踏み切った後も不承認の態度を変えようとしなかったことには十分に理解できるものがあり、これをもって差別行為と非難される理由はないというべきである。

(三)  解放研生徒との話合い拒否について

八鹿高校の解放研の生徒たちは、一一月一八日三項目の要求を掲げて座込みに入った。その要求の内容は「(一)八鹿高校解放研の顧問をさらに三名つけること(但し、人選は解放研の希望を受け入れること)、(二)八鹿高校解放研と先生との話合いを持つこと(但し、連合解放研並びに解放同盟の各役員を含むこと)、(三)現在、八鹿高校の同和教育は部落の解放と全ての生徒の幸せにつながっていないことを認めること」というものであり、第一、二項目では、教師側が八鹿高校の解放研を承認することを前提にし、話合いには連合解放研と解放同盟の役員が同席することを条件とするものであった。しかし、原告ら八鹿高校の教職員は、解放研が解放同盟の下部組織ともいうべき性格と実態を持ち、他校の解放研の例からも学校教育とは相容れないものとの判断から、終始その設立に反対する姿勢を貫いていたのであるから、原告らに解放研の承認を前提とする話合いを期待することにはそもそも無理があったばかりか、解放研生徒が要求する「先生との話合い」も、連合解放研や解放同盟の役員の同席を条件とするものであって、このような話合いが、教育的営為としてなされる通常の先生と生徒との話合いとは全く異質なもので、教師を糾弾の対象とし、そのまま確認会、糾弾会に発展しかねない内実のものであったことは、他校の実例からも明らかであった。

解放同盟という運動団体の指導と支援を背景に教師を糾弾の対象としか考えない解放研生徒に対しては、自校の教師といえども、もはや教育的営為を行うことは極めて困難な状態に立ち至っていたのである。第三項目にしても、これを認めることは、地道で多面的かつ積極的な活動を展開してきた八鹿高校の過去の同和教育及びその成果を全て否定し去ることにつながるものであり、原告が容易に応じるとは到底考えられないものであった。

右の諸事実に、本件当日までの事態の進展(解放研生徒は要求貫徹を図るためハンガーストライキに突入し、これを外部から支援する解放同盟の動きは一層激しさを増していたことなど)を併せて考えると、原告八鹿高校教職員が、解放研生徒の求める「話合い」に教育的価値を認めず、かえって場合によっては確認会、糾弾会に持ち込まれ、八鹿高校の教育の自主性、主体性を損いかねない最悪の事態になることを懸念して、これを拒否したことにはそれなりの理由があり、原告らのこのような対応を差別行為として非難することはできないというべきである。

(四)  原告らの集団下校について

原告らは、八鹿高校事件発生の当日(二二日)、登校後直ちに集団下校した。これは、諸般の状況から、原告ら八鹿高校教職員に対する解放同盟の糾弾が誰の目から見ても当日必至の情勢であり、ひと度解放同盟の糾弾を許せば、原告らの身体の安全はもとより八鹿高校の教育の自主性、主体性も損われ、八鹿高校は以後、解放同盟に指示されるまま教育を進めていかざるを得なくなると原告らが判断し、そのような事態だけは何としても回避しようとしたためである。原告らの右判断があながち荒唐無稽でなかったことは、本件当日の八鹿高校を取りまく周囲の異様な状況に加えて、南但馬における解放同盟の動向や南但支連協の運動方針(糾弾闘争に関する項参照)、それに何よりも本件当日、被告らに指導された多数の解放同盟員らが原告らに対し執拗かつ凄惨な集団暴行を加え、暴力をもって原告らを無条件に屈服させたうえ、「今後は解放同盟と連帯して部落解放のために闘う。」などの自己批判書を書かせていることからも明らかである。

したがって、緊急事態に直面した原告らが、自らの身体の安全と八鹿高校の教育の自主性、主体性を守るため、非常手段として集団下校したことには無理からぬものがあり、むしろ緊急避難であったということができる。なるほどハンガーストライキをしている解放研生徒をそのまま校内に放置して集団下校したことには、「自校の生徒の立場を思いやるという教育的配慮に乏しく、教育者として適切さを欠く点があった」とか、「いかにも早急で思いきった態度であり、現にハンガーストライキをしている生徒やその父兄の心情を含め同校全体の教育的見地への配慮を十分かつ慎重に行ったうえのものであるかどうかについても大いに問題となる」旨の指摘も一応できなくはないであろうが、前述の解放研の性格と実態、解放研生徒の要求する「話合い」の内実等を仔細に検討すれば、右の指摘が果して正鵠を射たものかどうか疑問なしとしないのである。

(五)  以上のとおりであり、被告らが主張する原告らの差別行為なるものには、そもそも差別性を見出すことができないのみならず、被告らの本件行為は、その動機、態様、結果のいずれをみても現行法秩序の到底許容し得ないものであるから、正当行為の主張は理由がなく、採用できない。

2  過失相殺

被告らは、本件の発生には、原告ら八鹿高校教職員が解放研をあくまで承認せず、解放研生徒との話合いを拒否して、ハンガーストライキをしている解放研生徒をそのまま校内に放置して集団下校するという、教育者として適切さを欠いた行為にも原因があり、責任の一端は原告らにもあるから、過失相殺すべきであると主張する。

しかし、これに対する当裁判所の判断は既に説示したとおりであり、原告らのとった措置はいずれも無理からぬもので、そこに落度はなく、教育者として適切さを欠いたとの非難は当を得たものではない。

被告らの過失相殺の主張も採用できない。

七  損害額

1  慰謝料の算定

本件は、解放研をあくまで承認せず解放研生徒との話合いを拒否する原告ら八鹿高校教職員に対し、被告両名に指導された南但馬の解放同盟が、共闘会議に名を藉りて差別者の汚名を着せ、徹底した私的制裁を加えて解放同盟に対する無条件の屈服を迫った事案であり、その態様は、白昼公道で原告らに襲いかかり集団暴行を加えて校内に連れ戻したうえ長時間にわたって校内各所に監禁し、その間執拗かつ凄惨な暴行、脅迫、傷害を加えた挙句、原告らにその意思に反して自己批判書を書かせたというものであって、本件不法行為は動機、態様、結果等のいずれをみても極めて悪質といわざるをえない。

したがって、慰謝料の算定にあたっては、右の本件事案の特殊性を基本に据えたうえ、原告らには、非難さるべき落度はないこと、被告らは、本件発生後今日に至るまで、原告らに対し何ら慰謝の方法を講じていないこと等をも斟酌しつつ、各原告毎に暴行脅迫の態様、傷害の有無、程度、入通院の期間、後遺症の有無、程度、監禁されたかどうか、その時間、自己批判書等の作成(強要)の有無の各項目を個別に検討し、その結果、別表第八(慰謝料額算定一覧表)記載のとおり各慰謝料額を定めることが、原告らの精神的肉体的苦痛を慰謝するのに相当であると認めた。

なお、同表記載の「加算金」は、本件不法行為の態様に照らし、個々の右各項目では賄うことのできないもの、例えば原告らが一様に味わったであろういい知れぬ屈辱感や暴力で屈服させられたことの無念さ、明日からの学校教育に対する不安、これらを増幅した本件不法行為の強度の不当性などを考慮し、補完的機能を持たせたものである。

2  承継前原告(27)亡甲野太郎及び同(29)亡乙山春夫の財産上の地位の相続

承継前原告(27)亡甲野太郎が昭和五四年一一月二七日、同(29)亡乙山春夫が昭和五三年七月一八日にそれぞれ死亡し、右原告甲野については父母である(27の1)甲野二郎、(27の2)甲野花子が、右原告乙山については同人の妻(29の1)乙山春子、同人の子(29の2)乙山一郎、同(29の3)乙山夏子が、それぞれの法定相続分に従い、右原告らの訴訟を承継した事実はいずれも訴訟上明らかである。

右事実によれば、承継前原告(27)亡甲野太郎の被告らに対する損害賠償請求権は原告(27の1)甲野二郎、同(27の2)甲野花子が二分の一ずつ、承継前原告(29)亡乙山春夫の被告らに対する損害賠償請求権は原告(29の1)乙山春子が三分の一、同(29の2)乙山一郎及び同(29の3)乙山夏子が三分の一ずつ、それぞれ相続したものと認める。

3  損害の填補

請求原因5(損害の填補)の事実は当事者間に争いがなく、右事実によれば、原告らは、別表第七の一(和解金額一覧表)、二(見舞金額一覧表)記載の慰謝料もしく見舞金名目で受領した金員を各自の慰謝料に補填していることが認められるから、原告らが被告らに請求しうる残存慰謝料額は別表第九(損害額算定一覧表)記載(「残存慰謝料額」の欄)のとおりとなる。

4  弁護士費用

原告らが本件訴訟を弁護士である原告ら訴訟代理人に委任したことは当裁判所に顕著であり、本件事案の難易、請求額、認容額その他諸般の事情を斟酌し、右弁護士費用は、別表第九(損害額算定一覧表)記載(「弁護士費用」の欄)の金員の限度で本件不法行為と相当因果関係に立つ損害と認める。

八  承継前原告(59)亡丙川夏夫、原告(60)戊田冬夫及び同(61)丙野一夫の本件各請求について

承継前原告(59)亡丙川夏夫、原告(60)戊田冬夫及び同(61)丙野一夫の三名は、前認定(三の30の項)のように、本件当日、他の原告らと共に八鹿高校から隊列を組んで集団下校したが、途中馬橋付近で隊列から離脱したため、立脇履物店前及び付近路上における集団暴行を含めて一連の本件不法行為による被害を免れた。したがって、右三名に対する被告らの不法行為は存在しないというべきである。

よって、原告(59の1)丙川秋子、同(59の2)乙野冬子、同(59の3)甲原竹子、同(60)戊田冬夫及び同(61)丙野一夫の本件各請求はいずれも理由がない。

九  結論

以上の次第であり、原告らの被告らに対する各請求のうち、原告番号12及び33の各原告の請求は全部理由があるから認容し、原告番号1ないし11、13ないし26、28、29の1ないし3、30ないし32、34ないし58の各原告の請求は、別表第九(損害額算定一覧表)記載(「損害額」の欄)の損害金及び同表記載(「残存慰謝料額」の欄)の残存慰謝料に対する不法行為の日の翌日である昭和四九年一一月二三日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容するが、その余は失当として棄却し、原告番号27の1、2、59の1ないし3、60、61の各原告の請求は全部理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、なお仮執行の宣言は相当でないからこれを付さないこととする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 白井博文 裁判官 栃木力 浅見健次郎)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例